2017.12.06 Wednesday

「しるし」創世記4:1-16

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    <聖書>

     4:1人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。 4:2彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。 4:3日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。 4:4アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。4:5しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。 4:6そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。 4:7正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。

     4:8カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。4:9主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。4:10主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。 4:11今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。 4:12あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。 4:13カインは主に言った、「わたしの罰は重くて負いきれません。 4:14あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」。 4:15主はカインに言われた、「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」。そして主はカインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。 4:16カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ。

    口語訳聖書(1955年版) 創世記4:1-16

     

     この前『エデンの東』という映画を観た。主人公はキャル(ジェームス・ディーン)。非の打ちどころがない好青年、双子の兄弟アロンに比べて、反抗的な自分は父アダムに愛されていないと感じながら育ってきた。

     父が事業に失敗し、財産の大部分を失った時、キャルは価格の高騰しつつあった大豆の生産に投資し、失われた財産と同じ程の金を儲ける。第一次世界大戦が始まり、大豆が高騰したからこその儲けであった。

     父の誕生日、兄のアロンは恋人アブラとの婚約の知らせをプレゼントする。一方キャルは丁寧に包んだ札束をプレゼントする。しかし、父アダムは受け取らない。戦争で儲けた金などいらないと言う。そして、アロンのように清らかなプレゼントをして欲しかったと語る。キャルは家を飛び出した。

     

     キャルの憎しみは兄のアロンへと向かう。当時酒場の営業は恥ずべき仕事と見なされる風潮があったらしい。アロンにとって酒場の店主は最も恥ずべき人物の一人であった。

     キャルは事前に、酒場の店主が父から死んだと教えられていたはずの母だと知っていた。キャルはアロンを母のもとへ連れて行く。アロンは自暴自棄になり出兵する。電車での出発に駆け付けた父アダムに対して、アロンは頭で電車のガラスを割り、気がふれたように痛々しく笑い続ける。アダムはあまりのショックに卒倒する。脳出血であった。

     キャルは精神的な意味で、アロンを殺した。父に破壊的な痛手を負わせた。

     

     アロンの恋人であったアブラも、父の愛に飢えて育った娘だった。アブラは意識があるかないか分からないアダムに、呼びかける。キャルが父の愛を強く求めていたことを伝え、あなたもキャルを愛していないわけではないのでしょうと呼びかける。あの子に「しるし」をください、とアブラは懇願する。それなしには彼が破滅するしかないのですと。

     三人の邪魔をする意地の悪い看護婦にキャルが「出ていけ!」と叫んだ時、アダムの意識が戻ったように見えた。アブラはキャルに赦しを乞うよう促す。キャルの言葉を聞いたアダムが口を開いた。

    「あの看護師を追い出せ」

    「はい」

    「あの看護師は嫌いだ」

    「僕もです、父さん」

    「お前が私の世話をしなさい」

     

     息子の一人であるアロンを破滅させたキャルに、アダムはいつまでも自分の世話をするように命ずる。それがキャルに対する「しるし」であった。創世記のカインに与えられた「しるし」のように。罪を犯してもなお、痛むほどに、父は愛する。

     

     『エデンの東』の原作はジョン・スタインベックによる小説である。映画では見られないシーンの一つに、アダムが息を引き取る瞬間があるそうだ。彼は、

    「ティムシェル」

    と言って息を引き取った。

     「ティムシェル」はヘブライ語で、「あなたは支配せねばならない」、「あなたは支配するであろう」という意味の言葉である。

    4:7正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません。

     「あなたはそれを治めなければなりません」、こう訳されているのが「ティムシェル」という言葉である。

     

     「あなたは支配するであろう」と訳することも可能だが、その場合、今日の聖書の言葉は不思議な響きを帯びてくる。「預言」としての響きだ。

     カインは罪を支配することができなかった。とすると、「支配するであろう」という言葉は、カインの末裔である我々に対して「約束された言葉」ということになってくる。はるか未来にやがて神の独り子イエス・キリストが人の罪を贖い、我々を罪から解放し、我々が罪を支配するようになるのだ。

     

     想像の域を出ないが、アダムが最期に「ティムシェル」と言ったのは、キリストが罪からの解放をもたらしてくださったことへの賛美と、取り返しのつかない罪を犯したウィルが、罪に支配されるのではなく、キリストにあって罪を支配する人として、新しく生きて行くこと願ったからなのかもしれない。

     ともかく、いつかは原作を読みたいと思っている。

    久居新生教会 牧師 霤朕心鄂

    2017.11.29 Wednesday

    「追放と帰還」創世記3:20-24

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      <聖書>

      3:20さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。 3:21主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。

      3:22主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。 3:23そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。3:24神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。

      口語訳聖書(1955年版) 創世記3:20-24

       夜、妻と子どもたちが寝た後に、居間に行った。ワッペン、シール、紫外線で固めるアクセサリー。娘の靴を飾るためのものだ。この前買った娘の靴が、素敵なのだが女の子には少し地味すぎるので、妻が準備したのだろう。

       母は本当に「夜なべ」をする、ということを知った。「母さんの歌」、子どもの頃に「みんなのうた」というテレビ番組でよく流れていた気がする。

      母さんが夜なべをして

      手袋あんでくれた

      木枯らしふいちゃ 冷たかろうて

      せっせとあんだだよ

       

       罪によって、アダムとエバはエデンの園を追放された。神は「義なる方」である。罪に対しては、徹底的に正しく振る舞われる。しかし、主なる神は、二人を裸のままで追放されなかった。

      3:21主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。

       「造って」というヘブライ語(旧約聖書の大部分は古代のヘブライ語で書かれている)には、「手で造る」という意味があるそうだ。つまり、神は指をパチンと鳴らして皮の衣を出現させたのではない。夜なべをする母のように、その手で皮の衣を造られたのだ。さらにその服を放ってやるのではなく、「着せられた」のだ。神が服を着せる!

       神は二人を追放した。けれども二人への愛は絶えなかった。耐えがたき旅に向かう二人のために、皮の衣を造った。

       

       人は皆いつか、楽園を追放されたところの自分の罪と向き合わなければならない。十字架に秘密がある。イエスという方によって罪が赦される時、楽園が回復される。神と人とのあるべき関係、永遠の喜びが、そこに現れる。

      よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう

      (ルカによる福音書23:43)

      久居新生教会 牧師 霤朕心鄂

      2017.11.22 Wednesday

      お休みのお知らせ

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        いつもブログ「聖書のはなし」をお読みいただきありがとうございます。

        今週は11月19日の礼拝にて、芳賀力先生に説教をしていただいたため、ブログの更新をお休みさせていただきます。

         

        ブログは日曜日の礼拝説教から、毎週霤弔書き起こしています。

        これからもよろしくお願いいたします。

         

        久居新生教会牧師 霤朕心鄂

        2017.11.15 Wednesday

        「裁きと赦しの交差点」

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          <聖書>

           3:1さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。 3:2女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、3:3ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。3:4へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 3:5それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。 3:6女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。 3:7すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。

           3:8彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。 3:9主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。 3:10彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。 3:11神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。 3:12人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。 3:13そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。 3:14主なる神はへびに言われた、

          「おまえは、この事を、したので、
          すべての家畜、野のすべての獣のうち、
          最ものろわれる。
          おまえは腹で、這いあるき、
          一生、ちりを食べるであろう。
          3:15わたしは恨みをおく、
          おまえと女とのあいだに、
          おまえのすえと女のすえとの間に。
          彼はおまえのかしらを砕き、
          おまえは彼のかかとを砕くであろう」。

          3:16つぎに女に言われた、

          「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。
          あなたは苦しんで子を産む。
          それでもなお、あなたは夫を慕い、
          彼はあなたを治めるであろう」。

          3:17更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、

          地はあなたのためにのろわれ、
          あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
          3:18地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、
          あなたは野の草を食べるであろう。
          3:19あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、
          あなたは土から取られたのだから。
          あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。

          口語訳聖書(1955年版) 創世記3:1-19

           

           「日の涼しい風の吹くころ」とは夕方のことで、この時間になると神がいつも二人のところを訪ねていたことを表している。けれども、いつもの二人がもうそこにはいないことを、神は知っている。罪が二人を捕えてしまったのだ。末っ子のヨセフを失った父ヤコブのように、放蕩息子に出て行かれた父親のように、痛みを含んだ声で、神は問いかける。

          「あなたはどこにいるのか。」

           

           「罪」について、今日の箇所から色々な解釈がなされる。神の命令に背いたことが罪、神のようになろうとしたことが罪、神から隠れることが罪、人のせいにすることが罪。マトから近い遠いはあるにせよ、どの解釈も間違いではないと思う。

           人のせいにする罪に近いが、私としては「罪を認めることができない罪」に、罪の深刻さを見ずにはおれない。

          「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです(ルカによる福音書23:34

           わたしのせいではない、わたしのせいではない、人間の奥底にある叫びだ。その叫びはやがて「十字架につけろ、十字架につけろ」という叫びとして、キリストに向かう。

           醜い。本当のところ自分はとても醜い。その醜さから目を逸らして過ごしている。それがまた情けない。

           ただ、アダムとエバの姿を見るとき、これは自分の姿だなと思う。そして、そんな人間のために十字架の上で神に赦しをこうた方のことを思わずにはおれない。

           思うに、人が自分の罪を知り、認めるのは、十字架の上に裁きと赦しが一緒に在るからではないだろうか。

            

          久居新生教会 牧師 霤朕心鄂

          2017.11.08 Wednesday

          「テープを切る日まで」ヘブル人への手紙11:29-12:3

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             11:39さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。 11:40神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。

             12:1こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。 12:2信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。 12:3あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。

            口語訳聖書(1954年版) ヘブル人への手紙11:29-12:3

             

             イエスという方は、「自分の前にある喜びのゆえに」、恥をもいとわず、十字架の死を受け入れたのだと言う。

             旧約聖書のイザヤ書53:11にこんな言葉がある。ちなみに、イザヤ書の53章は教会において、イエス・キリストについての預言として親しまれている。ある意味で、新約聖書以上に鮮やかにイエス・キリストを描き出している箇所だ。

            彼は自らの苦しみの実りを見

            それを知って満足する。

            わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために

            彼らの罪を自ら負った。

             (新共同訳聖書 イザヤ書53:11)

             キリストの前にあった喜びとは、この「苦しみの実り」なのだ。あなたが救われるということが、十字架の死に臨んだキリストの前にある喜びだったのだ。

             

             「あなたはわたしの喜び」というキリストの声が聞こえてくる時、人の内に信仰が呼び覚まされる。ナザレのイエスという方の死が、他ならぬ自分のためであったことが了解される。イエスが「信仰の創始者」であるとは、そういう意味である。十字架が信仰を生起せしめるのだ。

             

             生きることは苦しい。また、キリスト者として生きるのも、時に容易なことではない。しかし、信仰の完成者はキリストなのだ。我々自身ではない。だから、一人のキリスト者の人生が、どのような軌道を描いて、終末の完成に至るのかは、我々の知り得るところではない。分かるのは、キリストが我々の信仰を完成へと導いてくださるということである。

             

             肝要なのは、自分がどのような類のレースを走っているのかということだと思う。短距離走か、マラソンか。結論を言えば、我々のレースは「駅伝」に似ている。我々の使命は信仰のたすきを受け取り、次に渡すことだ。そのために、自分に与えられた区間を走り抜くことだ。

             我々は一人ではない。信仰のたすきは、人類の誕生の時から受け継がれてきた。この歴史を股にかけたレースの最終盤を、我々は走っている。前方には「あなたはわたしの喜び」と言ってくださるキリストがいる。周囲には先に逝った者たちの、声援が満ちている。

             きっと我々は、この苦しいレースを走り切ることだろう。走れないわけがない。イエスという方が前方を走ってくださり、また証人たちの雲に囲まれているのだから。我々は、歓呼の内に、息を切らしながらも、しっかりとゴールのテープを切ることだろう。

             

            久居新生教会牧師 霤朕心鄂