2018.07.11 Wednesday

「神の笑い」詩編2:1-12

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    <聖書>

    2:1なにゆえ、もろもろの国びとは騒ぎたち、
    もろもろの民はむなしい事をたくらむのか。
    2:2地のもろもろの王は立ち構え、
    もろもろのつかさはともに、はかり、
    主とその油そそがれた者とに逆らって言う、
    2:3「われらは彼らのかせをこわし、
    彼らのきずなを解き捨てるであろう」と。
    2:4天に座する者は笑い、
    主は彼らをあざけられるであろう。
    2:5そして主は憤りをもって彼らに語り、
    激しい怒りをもって彼らを恐れ惑わせて言われる、
    2:6「わたしはわが王を聖なる山シオンに立てた」と。
    2:7わたしは主の詔をのべよう。
    主はわたしに言われた、「おまえはわたしの子だ。
    きょう、わたしはおまえを生んだ。
    2:8わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を
    嗣業としておまえに与え、
    地のはてまでもおまえの所有として与える。
    2:9おまえは鉄のつえをもって彼らを打ち破り、
    陶工の作る器物のように彼らを
    打ち砕くであろう」と。
    2:10それゆえ、もろもろの王よ、賢くあれ、
    地のつかさらよ、戒めをうけよ。
    2:11恐れをもって主に仕え、おののきをもって
    2:12その足に口づけせよ。
    さもないと主は怒って、
    あなたがたを道で滅ぼされるであろう、
    その憤りがすみやかに燃えるからである。
    すべて主に依り頼む者はさいわいである。

    口語訳聖書(1955年版)詩編2:1-12

     聖書には、「天に座する者は笑う」、つまり「神が笑う」と書かれている。意外に感じる人もいるだろう。ただ、人間のようににっこりしたり、微笑んだりはしない。聖書で「神が笑う」と書かれる場合、十中八九以上、「あざ笑う」という意味である。

     聖書の神様は意地悪なのか。別にそういうことではない。神は神ならぬ者が神ごとく振る舞うことを笑うのである。神をあざ笑う者を笑うのである。

     神の笑いは、ややこしい言い方だが、笑ってすむものではない。神の力に満ちた笑いは、落雷のように相手を無力化してしまう。

     

     「その油そそがれた者」(2:4)は元来「王」を意味した。イスラエル(厳密には南王国ユダ)の王の即位式に際して、神は侵攻を目論む周辺諸国とその王を笑われた。

     「油そそがれた者」はヘブライ語の原文では、「メシア」と書かれている。初めは王という意味だった。しかし、時を経て、人々はこれを歴史の終末に到来するメシア、救い主と理解するようになっていった。詩編第二編は、詩人の意図を超えて、イエス・キリストを指し示す詩となっていった。

     

     キリストの十字架における死と復活によって、神は「死」を滅ぼされた。神はこの世界に、死が絶対的な力を行使し続けることをお許しにはならなかった。最終的に、神の笑いは死そのものに向けられた。

     

     戦前にナチスと戦った神学者、ヴィルヘルム・フィッシャーは『天に座す方は笑う』という美しい論文に、次のような言葉を残している。

     

    「泣いている者たちは幸いである。

    天に座す方が笑っておられるという確かな慰めの故に。」(拙訳)

     

     彼は滅ぼされたはずの死の残存勢力が、ナチスを通して猛威を振るう様を見、多くの涙枯れ果てた人々を見てきたことだろう。それでも彼は神の勝利と笑いを信じた。世界にこだまする、神の音なき笑いを信じた。

     今も、神の笑いは、世界に響いている。私にはその笑いが聴こえるような気がするし、そう思うと少し笑えそうな気がしてくるのだ。

     

    久居新生教会牧師 霤朕心鄂

    2018.07.04 Wednesday

    お休みのお知らせ

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      今週の【聖書のはなし】は、私の都合によりお休みさせていただきます。

      これからもよろしくお願いします。

       

      久居新生教会牧師 霤朕心鄂

      2018.06.27 Wednesday

      「急いで帰ろう」ルカによる福音書4:16-30

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        <聖書>

         4:16それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。 4:17すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、

        4:18「主の御霊がわたしに宿っている。
        貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、
        わたしを聖別してくださったからである。
        主はわたしをつかわして、
        囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、
        打ちひしがれている者に自由を得させ、
        4:19主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。

         4:20イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。 4:21そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。 4:22すると、彼らはみなイエスをほめ、またその口から出て来るめぐみの言葉に感嘆して言った、「この人はヨセフの子ではないか」。 4:23そこで彼らに言われた、「あなたがたは、きっと『医者よ、自分自身をいやせ』ということわざを引いて、カペナウムで行われたと聞いていた事を、あなたの郷里のこの地でもしてくれ、と言うであろう」。 4:24それから言われた、「よく言っておく。預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである。 4:25よく聞いておきなさい。エリヤの時代に、三年六か月にわたって天が閉じ、イスラエル全土に大ききんがあった際、そこには多くのやもめがいたのに、 4:26エリヤはそのうちのだれにもつかわされないで、ただシドンのサレプタにいるひとりのやもめにだけつかわされた。4:27また預言者エリシャの時代に、イスラエルには多くのらい病人がいたのに、そのうちのひとりもきよめられないで、ただシリヤのナアマンだけがきよめられた」。 4:28会堂にいた者たちはこれを聞いて、みな憤りに満ち、 4:29立ち上がってイエスを町の外へ追い出し、その町が建っている丘のがけまでひっぱって行って、突き落そうとした。 4:30しかし、イエスは彼らのまん中を通り抜けて、去って行かれた。

         

        口語訳聖書(1954年版) ルカによる福音書3:16-30

         「主の恵みの年」とは「ヨベルの年」のことである。ヨベルとは角笛のことで、この年には国中に角笛の音が響き渡った。

         ヨベルの年については旧約聖書のレビ記25章に記されている。50年に一度、すべての負債は免除され、身売りをした者は自由になり、先祖伝来の土地を売らざるを得なかった者はそれを取り戻す。

         

         当時の民衆はローマ帝国への税、領主(ヘロデやピラト)への税という二重の税に苦しんでいた。また、多くの者が土地を持たない小作人で、収穫の半分以上を地主に納めていたという。これでは暮らしが成り立つはずがない。当然、飢饉の年にはおびただしい餓死者が出た。

         ヨベルの年は、現実には厳格に履行されなかったと言われている。民衆は究極的な解放を、終末のメシアの到来に託すようになっていった。会堂でキリストが「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」(4:21)と言われたのは、自らが究極のヨベルの年をもたらすメシアであることを宣言したことを意味する。

         

         しかし、その後に語ったことが、人々の怒りを買う。「サレプタのやもめ」、「シリヤのナアマン」は共に「異邦人」(外国人)である。キリストが語ったことの趣旨は、自分は神の民イスラエルだけではなく、異邦人の救いのためにも、神から遣わされたのだということだ。

         人々はこれに我慢することができなかった。当時、イスラエルの民だけが救われるという選民思想が広まっていたことも一つの理由だろう。しかし、事はそれほど単純ではない。民衆は呻き苦しんでいたのである。「異邦人」は彼らにとって、多くの場合支配階級であった。自分たちはこんなにも貧しく、呻き、叫びをあげているのに、お前は異邦人の救いなどということを語るのか。これが人々の思いだったのだろう。その怒りは、キリストを崖から突き落として殺そうとするほど激しいものだった。

         

         キリストは税金を治めることができずに投獄される同胞の姿を見ていただろう。身売りで引かれて行く子どもの姿を知っていただろう。枯れ切った涙や、遺体の発する香りや、流れる赤い血の色を、見ていなかったはずがない。それでも、異邦人の救いを語らなければならなかった。なぜだろう。

         それは十字架と復活の後に救われていく者たちを、遥かに見ていたからだ。実際にキリストの福音は、異邦人である我々のもとに届いたのだから。

         

         「ヨベルの年」はやがて、キリスト教会において、十字架と復活における罪からの解放を意味するようになっていった。讃美歌21の431番の4節では次のように歌われている。

         

        喜ばしい 年はじまる

        あがなわれた 罪人たち

        喜びいさんで ふるさとさしつつ

        急いで帰ろう。

        (讃美歌21、日本基督教団出版局)

         「ふるさと」とは、もちろん神の国のことだ。人生は確かに神の国への帰り道となり得る。ただ神の恵みとその人の信仰とによって。

        久居新生教会牧師 霤朕心鄂

        2018.06.20 Wednesday

        「歩いて行く」ルカによる福音書4:1-15

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          <聖書>

           4:1さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、 4:2荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた。 4:3そこで悪魔が言った、「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」。 4:4イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。 4:5それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて 4:6言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。 4:7それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。 4:8イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。 4:9それから悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。 4:10『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、 4:11また、『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』とも書いてあります」。 4:12イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』と言われている」。 4:13悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた。

           4:14それからイエスは御霊の力に満ちあふれてガリラヤへ帰られると、そのうわさがその地方全体にひろまった。 4:15イエスは諸会堂で教え、みんなの者から尊敬をお受けになった。

           

          口語訳聖書(1954年版) ルカによる福音書3:23-28

           翻訳というものはおもしろい。新約聖書は古代のギリシャ語で書かれている。新共同訳聖書と口語訳聖書、今日の箇所での大きな違いは、「言葉遣い」である。口語訳聖書では悪魔の言葉が「丁寧語」で訳されている。新共同訳聖書だともっと戦いを挑んでくるような勢いがあるが、口語訳聖書ではささやくようにやさしく悪魔は誘惑する。

           

           悪魔は三つの誘惑において、キリストを「人々が望む方法で神の国を建設する」方向へ誘導しようとしている。人々が望んでいるのは「パン」であり「食糧」である。貧困をなくして神の国を建設してはどうでしょうかと悪魔はささやく。

           人々は「ローマ帝国からの解放」を望んでいた。ひとつ世界の王になって、民をローマから解放し、神の国を建設したらどうでしょうかと悪魔は誘う。

           人々は「奇跡」を求めていた。惜しみなく奇跡を行って、人心を掌握されたらどうですか、そうすれば神の国を造ることができるでしょうと悪魔は提案する。

           

           三つの誘惑を観察すると、悪魔が「どこかから」キリストを「逸らせようとしている」ことが見えてくる。悪魔は十字架を恐れている。十字架の方に行ってほしくないのだ。その先には自分の破滅があるから。

           十字架の死による救い、という方法を誰も望んでいないし、予想してもいなかった。キリストは「人々が望まない方法で」神の国を建設しなければならなかった。神の国は十字架において到来しなければならなかった。

           

           悪魔の誘惑に打ち克つことにより、キリストは十字架への道をご自分で定められた。誘惑への勝利の先には、もう十字架が見える。人間の敗北の歴史、罪の歴史を背負って、この方は十字架と復活における勝利に向かって、歩いて行く。

          久居新生教会牧師 霤朕心鄂

          2018.06.13 Wednesday

          「坂を転がる石」ルカによる福音書3:28-38

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            <聖書>

             3:23イエスが宣教をはじめられたのは、年およそ三十歳の時であって、人々の考えによれば、ヨセフの子であった。ヨセフはヘリの子、 3:24それから、さかのぼって、マタテ、レビ、メルキ、ヤンナイ、ヨセフ、 3:25マタテヤ、アモス、ナホム、エスリ、ナンガイ、 3:26マハテ、マタテヤ、シメイ、ヨセク、ヨダ、 3:27ヨハナン、レサ、ゾロバベル、サラテル、ネリ、 3:28メルキ、アデイ、コサム、エルマダム、エル、 3:29ヨシュア、エリエゼル、ヨリム、マタテ、レビ、 3:30シメオン、ユダ、ヨセフ、ヨナム、エリヤキム、 3:31メレヤ、メナ、マタタ、ナタン、ダビデ、 3:32エッサイ、オベデ、ボアズ、サラ、ナアソン、 3:33アミナダブ、アデミン、アルニ、エスロン、パレス、ユダ、 3:34ヤコブ、イサク、アブラハム、テラ、ナホル、 3:35セルグ、レウ、ペレグ、エベル、サラ、 3:36カイナン、アルパクサデ、セム、ノア、ラメク、 3:37メトセラ、エノク、ヤレデ、マハラレル、カイナン、 3:38エノス、セツ、アダム、そして神にいたる。

            口語訳聖書(1954年版) ルカによる福音書3:23-28

             ルカによる福音書では、この系図の後に四十日間の「荒れ野での誘惑」の出来事が記されている。悪魔がキリストを誘惑したのだ。

             「系図」の後に「誘惑」の記述があるのは偶然でない。系図とはすなわち人間の歴史であり、人間の歴史は悪魔の誘惑との戦いの歴史、罪との戦いの歴史であった。そのすべての歴史と罪を背負い、キリストは荒れ野で誘惑を受けられたのだ。

             

             旧約聖書を開けば、そこには神と人間の物語、歴史が記されている。人間は敗れ続けてきた。力への誘惑、神ならぬものの礼拝への誘惑、神を試す誘惑、これらの罪のいざないにいつも屈してきた。人間は永遠に負け続けるのだろうか。悪魔は最後まで高笑いを続けるのか。

             

             今日の聖書の箇所に、「系図」が記されているのは、イエス・キリストが、罪との戦いの歴史に終止符を打つ方として来られたことを表している。

            3:23イエスが宣教をはじめられたのは、年およそ三十歳の時であって、人々の考えによれば、ヨセフの子であった。

             歴史の様相が根本的なところで変化を始めた。それはすでにキリストの誕生によって始まっていたが、「宣教の開始」により石は坂を転がりだした。やがて、この石は十字架と復活の出来事により、死と罪の力を打ち砕く。

             

             これからも、人間は負け続けるように見えるかもしれない。しかし、既に戦いは終わった。だからこの「終わり」から、私達の戦いを始めよう。戦いが終わったからこそ、戦い続ける。決して負けることはない。およそ三十歳の人にして神の子、この方の勝利を、私は信じる。

            久居新生教会牧師 霤朕心鄂

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