2017.05.10 Wednesday

「一つ二つと数えてみれば」マルコによる福音書16:19-20

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    <聖書>

    16:19主イエスは彼らに語り終ってから、天にあげられ、神の右にすわられた。 16:20弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。

    口語訳聖書(1954年版) マルコによる福音書16:19-20

     キリストが天に上げられ、神の右の座につかれたことを次のように解き明かした牧師がいる。

     

     「支配者が支配の座につき、審判者が審判の座にのぼることであり、休むのではなく、権威を発動させる行動の開始を意味します。こうして、かつて人々が遠いところと考え、また事実、人々の上に閉ざされていた天は、きわめて親しいところとなったのです。

    『マルコ福音書講解説教』、渡辺信夫、新教出版社、1973年

     

     ポイントは二つある。一つは、キリストが神の右の座に座られたのは、一件落着ということではなく、逆に「行動の開始」であったこと。二点目はキリストがおられることによって、天が「きわめて親しいところ」となったことである。

     あの時行動を開始したキリストは、我々の一人ひとりを通して、今日も天から働いておられる。だから、天はにっこりと我々に微笑む。小降りの雨のときも。

     

     「御言葉に伴うしるし」とは、「奇跡」のことである。弟子たちの宣教の言葉が真実であることを、キリストが奇跡を与えることによって確証するのだという。

     「奇跡」とは、必ずしも自然の理(ことわり)を超えた出来事や、偶然の一致を意味しない。占いや霊能力(そもそも聖書はそんなものを認めてはいないが)とも関係ない。我々の身近で起こる、最も大いなる奇跡とは、「一人の人間が信じ、救われること」である。神が救いたもうことである。超常現象などそれに比べれば小さな出来事に過ぎない。

     しかし、このような奇跡は、神の目には大きく、人間の目には小さく映る。そして、奇跡というものは控え目で謙虚なので、よく目を凝らさないと姿を見せてくれない。だから、信仰の眼(まなこ)を凝らすのだ。

     人目を引くような奇跡はいらない。大切なのは、目を凝らせばそこら中に散りばめられているような、地味で小さな奇跡である。一つ、二つと数えてみれば、「しるし」が胸に沁みとおる。イエスという方が、今日も生きているのだ。

     

    久居新生教会 牧師 霤朕心鄂

    2017.04.26 Wednesday

    「帰るべき場所」マルコによる福音書16:9-18

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      <聖書>

       16:9週の初めの日の朝早く、イエスはよみがえって、まずマグダラのマリヤに御自身をあらわされた。イエスは以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたことがある。 16:10マリヤは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいる所に行って、それを知らせた。 16:11彼らは、イエスが生きておられる事と、彼女に御自身をあらわされた事とを聞いたが、信じなかった。

       16:12この後、そのうちのふたりが、いなかの方へ歩いていると、イエスはちがった姿で御自身をあらわされた。 16:13このふたりも、ほかの人々の所に行って話したが、彼らはその話を信じなかった。

       16:14その後、イエスは十一弟子が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった。彼らは、よみがえられたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。 16:15そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。 16:16信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。 16:17信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、 16:18へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。

      口語訳聖書(1954年版) マルコによる福音書16:9-18

       私は約二千年前の時代を生きたナザレのイエスという方と面識がない。しかし、この人を知っているかと聞かれれば知っていると答えるし、この方と出会ったかと言われれば出会ったと答えると思う。

       礼拝というものは「十字路」のようなものなのかもしれない。そこに復活のキリストは立っておられる。会えば「おはよう」と言ってくださる。

       

       弟子たちは復活の知らせを聞いたが信じなかった。聞くだけではだめだったようだ。やはり、復活のキリストと出会わなければならない。しかし、「出会い」という言葉はすっかり使い古されてしまった感がある。

       「ああ、そこにいたんですね。」それは新奇な何かを見出すというよりは、魂の故郷を見つけた感じに近い。旧約聖書の詩編にこんな言葉がある。

      「主のもとに行こう、と人々が言ったとき わたしはうれしかった。」

      詩編122:1(新共同訳)

       復活者と出会うことは、主の家に帰ることと似ている。帰るべき場所が、そこにある。

       久居新生教会牧師 霤朕心鄂

      2017.04.19 Wednesday

      「あなたのガリラヤ」マルコによる福音書16:1-8

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        <聖書>

        16:1さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。 16:2そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。 16:3そして、彼らは「だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか」と話し合っていた。 16:4ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。この石は非常に大きかった。 16:5墓の中にはいると、右手に真白な長い衣を着た若者がすわっているのを見て、非常に驚いた。 16:6するとこの若者は言った、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である。 16:7今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と」。16:8女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである。

        口語訳聖書(1954年版) マルコによる福音書16:1-8

         福音書記者マルコは、「恐ろしかったからである」という言葉をもって、福音書を閉じている。

         天使と思われる若者の「イエスはよみがえって」という言葉は、原文では「受身形」で書かれている。神がよみがえらせたという意味は明白である。ここに婦人たちの恐れの本体がある。彼女たちは、「神の業」を目の当たりにしたのだ。霊的な戦慄が彼女らを貫いた。この恐れから本物の復活の喜びが生起する。なぜならば、神への恐れが死への恐れを凌駕するからだ。神の業が死の力を打ち抜く。そこに恐れが起こる。この恐れは時をおいて、やがて体の奥から湧き出すような喜びに変わる。

         

         「ガリラヤ」が復活のキリストと弟子たちの再開の場所であった。私たちにとってのガリラヤは「終末」である。終わりの日にイエスという方と顔と顔を合わせるのだ。

         マルコは弟子たちのガリラヤでの再会を描かずに筆を止めている。この続きはあなたの命で描き出しなさい、あなたのガリラヤを目指して生きなさい。そんなことが言いたかったのかもしれない。

        久居新生教会 牧師 霤朕心鄂

        2017.03.15 Wednesday

        「果てしなく長い階段」マルコによる福音書15:42-47

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          <聖書>

            15:42さて、すでに夕がたになったが、その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、 15:43アリマタヤのヨセフが大胆にもピラトの所へ行き、イエスのからだの引取りかたを願った。彼は地位の高い議員であって、彼自身、神の国を待ち望んでいる人であった。 15:44ピラトは、イエスがもはや死んでしまったのかと不審に思い、百卒長を呼んで、もう死んだのかと尋ねた。 15:45そして、百卒長から確かめた上、死体をヨセフに渡した。 15:46そこで、ヨセフは亜麻布を買い求め、イエスをとりおろして、その亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納め、墓の入口に石をころがしておいた。 15:47マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスが納められた場所を見とどけた。

          口語訳聖書(1954年版) マルコによる福音書15:42-47

           三十三歳で死んだ兄が火葬にふされた時、外の立ち昇る煙がやけに黒かったことを覚えている。人間を焼くと、とても黒い煙が出るようだ。

           キリストの生きたあの時代、あの土地では土葬・火葬は行わず、遺体はただ岩を削って作った墓に安置された。墓に遺体を納め、岩でふたをする時、それは生者と死者が分かたれる時である。我々にとってみれば火葬・納骨の時であり、とりわけ火葬の時の感覚に近いだろう。叫び出したくなるような、つらい、別れの時だ。

           

           古代から受け継がれているキリスト教会の信仰の要諦、使徒信条にはこう書かれている。

          「主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまえり。」

           「死にて葬られ」とは、キリストがあの「黒い煙」になられたということである。こんなところにまで、イエスという方は来てくださった、果てしなく長い階段を下り続けて、来てくださったんだな、と思う。まさか、葬りまでその身に受け入れられたとは。

           

           自分もいつか死ぬ。平和な時代であれば、火葬だろう。私も黒い煙になるのだ。その時まで、イエスという方の死を、先に逝った者たちの死を見つめ続ける。自分の番が来たら、わが主イエスは黒い煙となってくださったということを、思い出す。

           

          久居新生教会 牧師 霤朕心鄂

          2017.03.08 Wednesday

          「最大の信仰」マルコによる福音書15:33-41

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            <聖書>

             15:33昼の十二時になると、全地は暗くなって、三時に及んだ。 15:34そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 15:35すると、そばに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「そら、エリヤを呼んでいる」。 15:36ひとりの人が走って行き、海綿に酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとして言った、「待て、エリヤが彼をおろしに来るかどうか、見ていよう」。15:37イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。 15:38そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。 15:39イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。 15:40また、遠くの方から見ている女たちもいた。その中には、マグダラのマリヤ、小ヤコブとヨセとの母マリヤ、またサロメがいた。15:41彼らはイエスがガリラヤにおられたとき、そのあとに従って仕えた女たちであった。なおそのほか、イエスと共にエルサレムに上ってきた多くの女たちもいた。

            口語訳聖書(1954年版) マルコによる福音書15:33-41

             隣の部屋からもうすぐ四才になる娘の「なんでー!」という泣き声が聞こえてくる。たぶん、テレビを消されたのだろう。本気で怒って妻にくってかかっている。本気で怒ることができるのは、娘が妻を信頼しているからだと思う。

             娘の叫び声を聞いていると、どうして自分はあの頃、娘のように神さまに泣きつくことができなかったのだろうと、少し悲しい気持ちになる。一番苦しかった時、どうして私を見捨てたんですか、どうして裏切ったんですか、無視し続けたんですかと、神にくってかかることができなかった。平静を装い続けた。平静を装うことで、神を見捨てたのは私の方ではなかったか。

             

             最大の信仰とは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という祈り得ることではないだろうか。神から最も遠い場所において、神に最も近くある。イエスという方の神の子たる秘儀がここにある。完全な絶望においてもこの方は「わが神、わが神!」と叫ぶことができる。「まことに、この人は神の子であった。」

             

             「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」この言葉は神への道が「神の側から」(上から下へ)拓かれたことを意味している。神への道は救いの道である。救いの道とは絶望においても「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶことができる道である。

             

             ある教会の信徒が語ってくれた。「私は一番つらい時を、信仰以外のもので乗り越えてしまったように思います。だから、もう一度苦しみの時がやってきたら、今度は信仰で乗り越えたいんです。」私も思う。「次は信仰で乗り越えたい。」

             次にやって来るのが人生最大の苦難であれ、自分自身の死であれ、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と祈る心を、忘れないでいたい。そう祈ってよいのだということを、忘れないでいたい。

            久居新生教会 牧師 霤朕心鄂