2018.10.17 Wednesday

「耳を澄ませば」ルカによる福音書6:6-11

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    <聖書>

     6:6また、ほかの安息日に会堂にはいって教えておられたところ、そこに右手のなえた人がいた。 6:7律法学者やパリサイ人たちは、イエスを訴える口実を見付けようと思って、安息日にいやされるかどうかをうかがっていた。 6:8イエスは彼らの思っていることを知って、その手のなえた人に、「起きて、まん中に立ちなさい」と言われると、起き上がって立った。 6:9そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたに聞くが、安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」。 6:10そして彼ら一同を見まわして、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、その手は元どおりになった。 6:11そこで彼らは激しく怒って、イエスをどうかしてやろうと、互に話合いをはじめた。

    口語訳聖書(1954年版) ルカによる福音書6:6-11

     いやしたら死なねばならないことは分かっていた。

     6:10そして彼ら一同を見まわして、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。

     一同を見回した時、キリストは自分が死ぬのだということを知っていた。殺意が向けられつつあることを知っていた。

     「手を伸ばしなさい」という言葉には、キリストの命がかかっている。自分の命を差し出しながら、あなたも「手を伸ばしなさい」と言ったのだ。

     

     先週大切な仲間であり、教会員であった方が逝去された。折に触れて共に祈った。その方は苦しそうに肩で息をしながら、祈りの言葉を紡いだ。まるで神に対して必死に手を伸ばしているようだった。

     あの人は、命を懸けて「手を伸ばしなさい」と言ってくださったキリストに、手を伸ばし続けたのだろう。

     私も命のある限り、手を伸ばし続けたい。耳を澄ませば、「手を伸ばしなさい」という主の声が聴こえてくる。

     

    久居新生教会牧師 霤朕心鄂

    2018.09.26 Wednesday

    「宴会の名人」ルカによる福音書5:33-39

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      <聖書>

       5:33また彼らはイエスに言った、「ヨハネの弟子たちは、しばしば断食をし、また祈をしており、パリサイ人の弟子たちもそうしているのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」。 5:34するとイエスは言われた、「あなたがたは、花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食をさせることができるであろうか。 5:35しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう」。 5:36それからイエスはまた一つの譬を語られた、「だれも、新しい着物から布ぎれを切り取って、古い着物につぎを当てるものはない。もしそんなことをしたら、新しい着物を裂くことになるし、新しいのから取った布ぎれも古いのに合わないであろう。 5:37まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、新しいぶどう酒は皮袋をはり裂き、そしてぶどう酒は流れ出るし、皮袋もむだになるであろう。 5:38新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。 5:39まただれも、古い酒を飲んでから、新しいのをほしがりはしない。『古いのが良い』と考えているからである」。

      口語訳聖書(1954年版) ルカによる福音書5:33-39

       自分が生きている間に、こんなに暗い時代が来るとは思っていなかった。嘘と不正がまかり通り、不寛容が地を覆いつくそうとしている。教会にとっても危機の時代だ。

       

       ルカによる福音書が書かれた時代も、平穏な時代ではなかった。教会の人々は散発的な弾圧や陰謀によって、しばしば投獄された。それでも信徒たちは「食べたり飲んだり」(5:33)して喜んでいた。復活のキリストが共におられると信じていたからである。だから、喜び祝った。

       

      5:35しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう」。

       この言葉は、やがて起こるキリストの十字架における「死」を予告している。弟子たちは完膚なきまで叩きのめされ、道を見失った。

       しかし、道は続いていた。キリストは復活し、天に昇り、聖霊において見えざるかたちで共に生きてくださるようになった。弟子たちは再び、「食べたり飲んだり」し始めた。厳しすぎる時代を、日々喜び祝いながら生きた。

       

       今もひどい時代だ。けれども、それを超えて、今は喜びの時代だ。キリストは生きている。そこに祝宴が生まれる。キリストは宴会の名人である。この方の宴会に一切はずれはない。

       

      久居新生教会牧師 霤朕心鄂

      2018.07.25 Wednesday

      「びっくり漁師」ルカによる福音書5:1-11

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        <聖書>

         5:1さて、群衆が神の言を聞こうとして押し寄せてきたとき、イエスはゲネサレ湖畔に立っておられたが、 5:2そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。 5:3その一そうはシモンの舟であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、舟の中から群衆にお教えになった。 5:4話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。 5:5シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。 5:6そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。 5:7そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。 5:8これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。 5:9彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。 5:10シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。 5:11そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。

        口語訳聖書(1954年版) ルカによる福音書5:1-11

         

         「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」ペテロの言葉には疲労の色がにじんでいる。しかし、同時に彼の言葉にはキリストへの「敬意」が含まれている。

         普通の人が網をおろしてみろと言ったなら、断っていただろう。ペトロはキリストと初対面ではない。前の安息日(金曜の日没から土曜の日没)の朝には、おそらく会堂でキリストの説教を聴き、夕方には自分の家に招待して、姑の病気を癒してもらっていた。翌朝に漁が終わった後も、彼は船を貸してキリストの説教を隣で聴いていた。

         「5:1さて、群衆が神の言を聞こうとして押し寄せてきたとき」とある。ペテロもまた、「神の言」を求め、これを語るイエスを尊敬していたのであろう。

         

         そうは言っても、やはりペトロが「やや気の進まないこと」をしようとしているのは事実である。驚くべき恵みは、気の進まない方角で待っている。

         

         「迷ったら苦しい方を選べ」という言葉を何度か聴いたことがある。私は賛成しない。神が望むなら険しい道を選べばよいし、同じように神が望むなら楽な道を選べばよい。いつでも苦しい方を選べばよいわけではない。

         とはいえ、やはり予想外の恵みは、少し行きたくない方向に待っていることが多い。現状を維持していれば安全だが、リスクのある決断をしなければならない時がある。当然、気は進まない。

         重要なのは、ペテロが気の進まない決断をする前提として、「神の言」を聴いていたということである。聖書、説教、礼拝に基づいて示された道であるならば、少し勇気を出して気の進まない方角を選択してよいのだ。

         

         「5:8主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です

         ペテロはなぜか驚くべき恵みの出来事に立ち会った時、自分が神の前に立ち得ない罪人であることを知った。人に罪を認識させるものは、単なる断罪ではなく裁きを伴った恵みであり、赦しである。

         

         ある小さな教会で連鎖的に洗礼を受ける者がでた。地方の教会としては異例のことであった。その時ある牧師が語ったことを人づてに聞いた。

         「お前は信じていないんだ、と(神さまに)言われた気がした。」

         驚くべき恵みの出来事が起こった時、人はそれが起こり得ることを信じていなかった自分に気付く。

         ペテロは自らの罪深さを知った。同時に彼はキリストが「先生」(5:5)ではなく「主」(5:8)であることを知った。恵みを知る者は罪を知り、罪を知る者は神を知る。

         

         「人間をとる漁師になる」(5:10)ということは、キリストの言葉に従い、気の進まない場所に網を打ち、その都度大漁に驚く漁師になることである。私はこれをびっくり漁師と名付ける。

        久居新生教会牧師 霤朕心鄂

        2018.06.27 Wednesday

        「急いで帰ろう」ルカによる福音書4:16-30

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          <聖書>

           4:16それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。 4:17すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、

          4:18「主の御霊がわたしに宿っている。
          貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、
          わたしを聖別してくださったからである。
          主はわたしをつかわして、
          囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、
          打ちひしがれている者に自由を得させ、
          4:19主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。

           4:20イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。 4:21そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。 4:22すると、彼らはみなイエスをほめ、またその口から出て来るめぐみの言葉に感嘆して言った、「この人はヨセフの子ではないか」。 4:23そこで彼らに言われた、「あなたがたは、きっと『医者よ、自分自身をいやせ』ということわざを引いて、カペナウムで行われたと聞いていた事を、あなたの郷里のこの地でもしてくれ、と言うであろう」。 4:24それから言われた、「よく言っておく。預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである。 4:25よく聞いておきなさい。エリヤの時代に、三年六か月にわたって天が閉じ、イスラエル全土に大ききんがあった際、そこには多くのやもめがいたのに、 4:26エリヤはそのうちのだれにもつかわされないで、ただシドンのサレプタにいるひとりのやもめにだけつかわされた。4:27また預言者エリシャの時代に、イスラエルには多くのらい病人がいたのに、そのうちのひとりもきよめられないで、ただシリヤのナアマンだけがきよめられた」。 4:28会堂にいた者たちはこれを聞いて、みな憤りに満ち、 4:29立ち上がってイエスを町の外へ追い出し、その町が建っている丘のがけまでひっぱって行って、突き落そうとした。 4:30しかし、イエスは彼らのまん中を通り抜けて、去って行かれた。

           

          口語訳聖書(1954年版) ルカによる福音書3:16-30

           「主の恵みの年」とは「ヨベルの年」のことである。ヨベルとは角笛のことで、この年には国中に角笛の音が響き渡った。

           ヨベルの年については旧約聖書のレビ記25章に記されている。50年に一度、すべての負債は免除され、身売りをした者は自由になり、先祖伝来の土地を売らざるを得なかった者はそれを取り戻す。

           

           当時の民衆はローマ帝国への税、領主(ヘロデやピラト)への税という二重の税に苦しんでいた。また、多くの者が土地を持たない小作人で、収穫の半分以上を地主に納めていたという。これでは暮らしが成り立つはずがない。当然、飢饉の年にはおびただしい餓死者が出た。

           ヨベルの年は、現実には厳格に履行されなかったと言われている。民衆は究極的な解放を、終末のメシアの到来に託すようになっていった。会堂でキリストが「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」(4:21)と言われたのは、自らが究極のヨベルの年をもたらすメシアであることを宣言したことを意味する。

           

           しかし、その後に語ったことが、人々の怒りを買う。「サレプタのやもめ」、「シリヤのナアマン」は共に「異邦人」(外国人)である。キリストが語ったことの趣旨は、自分は神の民イスラエルだけではなく、異邦人の救いのためにも、神から遣わされたのだということだ。

           人々はこれに我慢することができなかった。当時、イスラエルの民だけが救われるという選民思想が広まっていたことも一つの理由だろう。しかし、事はそれほど単純ではない。民衆は呻き苦しんでいたのである。「異邦人」は彼らにとって、多くの場合支配階級であった。自分たちはこんなにも貧しく、呻き、叫びをあげているのに、お前は異邦人の救いなどということを語るのか。これが人々の思いだったのだろう。その怒りは、キリストを崖から突き落として殺そうとするほど激しいものだった。

           

           キリストは税金を治めることができずに投獄される同胞の姿を見ていただろう。身売りで引かれて行く子どもの姿を知っていただろう。枯れ切った涙や、遺体の発する香りや、流れる赤い血の色を、見ていなかったはずがない。それでも、異邦人の救いを語らなければならなかった。なぜだろう。

           それは十字架と復活の後に救われていく者たちを、遥かに見ていたからだ。実際にキリストの福音は、異邦人である我々のもとに届いたのだから。

           

           「ヨベルの年」はやがて、キリスト教会において、十字架と復活における罪からの解放を意味するようになっていった。讃美歌21の431番の4節では次のように歌われている。

           

          喜ばしい 年はじまる

          あがなわれた 罪人たち

          喜びいさんで ふるさとさしつつ

          急いで帰ろう。

          (讃美歌21、日本基督教団出版局)

           「ふるさと」とは、もちろん神の国のことだ。人生は確かに神の国への帰り道となり得る。ただ神の恵みとその人の信仰とによって。

          久居新生教会牧師 霤朕心鄂

          2018.06.20 Wednesday

          「歩いて行く」ルカによる福音書4:1-15

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            <聖書>

             4:1さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、 4:2荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた。 4:3そこで悪魔が言った、「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」。 4:4イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。 4:5それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて 4:6言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。 4:7それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。 4:8イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。 4:9それから悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。 4:10『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、 4:11また、『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』とも書いてあります」。 4:12イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』と言われている」。 4:13悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた。

             4:14それからイエスは御霊の力に満ちあふれてガリラヤへ帰られると、そのうわさがその地方全体にひろまった。 4:15イエスは諸会堂で教え、みんなの者から尊敬をお受けになった。

             

            口語訳聖書(1954年版) ルカによる福音書3:23-28

             翻訳というものはおもしろい。新約聖書は古代のギリシャ語で書かれている。新共同訳聖書と口語訳聖書、今日の箇所での大きな違いは、「言葉遣い」である。口語訳聖書では悪魔の言葉が「丁寧語」で訳されている。新共同訳聖書だともっと戦いを挑んでくるような勢いがあるが、口語訳聖書ではささやくようにやさしく悪魔は誘惑する。

             

             悪魔は三つの誘惑において、キリストを「人々が望む方法で神の国を建設する」方向へ誘導しようとしている。人々が望んでいるのは「パン」であり「食糧」である。貧困をなくして神の国を建設してはどうでしょうかと悪魔はささやく。

             人々は「ローマ帝国からの解放」を望んでいた。ひとつ世界の王になって、民をローマから解放し、神の国を建設したらどうでしょうかと悪魔は誘う。

             人々は「奇跡」を求めていた。惜しみなく奇跡を行って、人心を掌握されたらどうですか、そうすれば神の国を造ることができるでしょうと悪魔は提案する。

             

             三つの誘惑を観察すると、悪魔が「どこかから」キリストを「逸らせようとしている」ことが見えてくる。悪魔は十字架を恐れている。十字架の方に行ってほしくないのだ。その先には自分の破滅があるから。

             十字架の死による救い、という方法を誰も望んでいないし、予想してもいなかった。キリストは「人々が望まない方法で」神の国を建設しなければならなかった。神の国は十字架において到来しなければならなかった。

             

             悪魔の誘惑に打ち克つことにより、キリストは十字架への道をご自分で定められた。誘惑への勝利の先には、もう十字架が見える。人間の敗北の歴史、罪の歴史を背負って、この方は十字架と復活における勝利に向かって、歩いて行く。

            久居新生教会牧師 霤朕心鄂

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