2018.07.25 Wednesday

「びっくり漁師」ルカによる福音書5:1-11

0

    <聖書>

     5:1さて、群衆が神の言を聞こうとして押し寄せてきたとき、イエスはゲネサレ湖畔に立っておられたが、 5:2そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。 5:3その一そうはシモンの舟であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、舟の中から群衆にお教えになった。 5:4話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。 5:5シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。 5:6そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。 5:7そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。 5:8これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。 5:9彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。 5:10シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。 5:11そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。

    口語訳聖書(1954年版) ルカによる福音書5:1-11

     

     「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」ペテロの言葉には疲労の色がにじんでいる。しかし、同時に彼の言葉にはキリストへの「敬意」が含まれている。

     普通の人が網をおろしてみろと言ったなら、断っていただろう。ペトロはキリストと初対面ではない。前の安息日(金曜の日没から土曜の日没)の朝には、おそらく会堂でキリストの説教を聴き、夕方には自分の家に招待して、姑の病気を癒してもらっていた。翌朝に漁が終わった後も、彼は船を貸してキリストの説教を隣で聴いていた。

     「5:1さて、群衆が神の言を聞こうとして押し寄せてきたとき」とある。ペテロもまた、「神の言」を求め、これを語るイエスを尊敬していたのであろう。

     

     そうは言っても、やはりペトロが「やや気の進まないこと」をしようとしているのは事実である。驚くべき恵みは、気の進まない方角で待っている。

     

     「迷ったら苦しい方を選べ」という言葉を何度か聴いたことがある。私は賛成しない。神が望むなら険しい道を選べばよいし、同じように神が望むなら楽な道を選べばよい。いつでも苦しい方を選べばよいわけではない。

     とはいえ、やはり予想外の恵みは、少し行きたくない方向に待っていることが多い。現状を維持していれば安全だが、リスクのある決断をしなければならない時がある。当然、気は進まない。

     重要なのは、ペテロが気の進まない決断をする前提として、「神の言」を聴いていたということである。聖書、説教、礼拝に基づいて示された道であるならば、少し勇気を出して気の進まない方角を選択してよいのだ。

     

     「5:8主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です

     ペテロはなぜか驚くべき恵みの出来事に立ち会った時、自分が神の前に立ち得ない罪人であることを知った。人に罪を認識させるものは、単なる断罪ではなく裁きを伴った恵みであり、赦しである。

     

     ある小さな教会で連鎖的に洗礼を受ける者がでた。地方の教会としては異例のことであった。その時ある牧師が語ったことを人づてに聞いた。

     「お前は信じていないんだ、と(神さまに)言われた気がした。」

     驚くべき恵みの出来事が起こった時、人はそれが起こり得ることを信じていなかった自分に気付く。

     ペテロは自らの罪深さを知った。同時に彼はキリストが「先生」(5:5)ではなく「主」(5:8)であることを知った。恵みを知る者は罪を知り、罪を知る者は神を知る。

     

     「人間をとる漁師になる」(5:10)ということは、キリストの言葉に従い、気の進まない場所に網を打ち、その都度大漁に驚く漁師になることである。私はこれをびっくり漁師と名付ける。

    久居新生教会牧師 霤朕心鄂

    2018.06.27 Wednesday

    「急いで帰ろう」ルカによる福音書4:16-30

    0

      <聖書>

       4:16それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。 4:17すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、

      4:18「主の御霊がわたしに宿っている。
      貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、
      わたしを聖別してくださったからである。
      主はわたしをつかわして、
      囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、
      打ちひしがれている者に自由を得させ、
      4:19主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。

       4:20イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。 4:21そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。 4:22すると、彼らはみなイエスをほめ、またその口から出て来るめぐみの言葉に感嘆して言った、「この人はヨセフの子ではないか」。 4:23そこで彼らに言われた、「あなたがたは、きっと『医者よ、自分自身をいやせ』ということわざを引いて、カペナウムで行われたと聞いていた事を、あなたの郷里のこの地でもしてくれ、と言うであろう」。 4:24それから言われた、「よく言っておく。預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである。 4:25よく聞いておきなさい。エリヤの時代に、三年六か月にわたって天が閉じ、イスラエル全土に大ききんがあった際、そこには多くのやもめがいたのに、 4:26エリヤはそのうちのだれにもつかわされないで、ただシドンのサレプタにいるひとりのやもめにだけつかわされた。4:27また預言者エリシャの時代に、イスラエルには多くのらい病人がいたのに、そのうちのひとりもきよめられないで、ただシリヤのナアマンだけがきよめられた」。 4:28会堂にいた者たちはこれを聞いて、みな憤りに満ち、 4:29立ち上がってイエスを町の外へ追い出し、その町が建っている丘のがけまでひっぱって行って、突き落そうとした。 4:30しかし、イエスは彼らのまん中を通り抜けて、去って行かれた。

       

      口語訳聖書(1954年版) ルカによる福音書3:16-30

       「主の恵みの年」とは「ヨベルの年」のことである。ヨベルとは角笛のことで、この年には国中に角笛の音が響き渡った。

       ヨベルの年については旧約聖書のレビ記25章に記されている。50年に一度、すべての負債は免除され、身売りをした者は自由になり、先祖伝来の土地を売らざるを得なかった者はそれを取り戻す。

       

       当時の民衆はローマ帝国への税、領主(ヘロデやピラト)への税という二重の税に苦しんでいた。また、多くの者が土地を持たない小作人で、収穫の半分以上を地主に納めていたという。これでは暮らしが成り立つはずがない。当然、飢饉の年にはおびただしい餓死者が出た。

       ヨベルの年は、現実には厳格に履行されなかったと言われている。民衆は究極的な解放を、終末のメシアの到来に託すようになっていった。会堂でキリストが「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」(4:21)と言われたのは、自らが究極のヨベルの年をもたらすメシアであることを宣言したことを意味する。

       

       しかし、その後に語ったことが、人々の怒りを買う。「サレプタのやもめ」、「シリヤのナアマン」は共に「異邦人」(外国人)である。キリストが語ったことの趣旨は、自分は神の民イスラエルだけではなく、異邦人の救いのためにも、神から遣わされたのだということだ。

       人々はこれに我慢することができなかった。当時、イスラエルの民だけが救われるという選民思想が広まっていたことも一つの理由だろう。しかし、事はそれほど単純ではない。民衆は呻き苦しんでいたのである。「異邦人」は彼らにとって、多くの場合支配階級であった。自分たちはこんなにも貧しく、呻き、叫びをあげているのに、お前は異邦人の救いなどということを語るのか。これが人々の思いだったのだろう。その怒りは、キリストを崖から突き落として殺そうとするほど激しいものだった。

       

       キリストは税金を治めることができずに投獄される同胞の姿を見ていただろう。身売りで引かれて行く子どもの姿を知っていただろう。枯れ切った涙や、遺体の発する香りや、流れる赤い血の色を、見ていなかったはずがない。それでも、異邦人の救いを語らなければならなかった。なぜだろう。

       それは十字架と復活の後に救われていく者たちを、遥かに見ていたからだ。実際にキリストの福音は、異邦人である我々のもとに届いたのだから。

       

       「ヨベルの年」はやがて、キリスト教会において、十字架と復活における罪からの解放を意味するようになっていった。讃美歌21の431番の4節では次のように歌われている。

       

      喜ばしい 年はじまる

      あがなわれた 罪人たち

      喜びいさんで ふるさとさしつつ

      急いで帰ろう。

      (讃美歌21、日本基督教団出版局)

       「ふるさと」とは、もちろん神の国のことだ。人生は確かに神の国への帰り道となり得る。ただ神の恵みとその人の信仰とによって。

      久居新生教会牧師 霤朕心鄂

      2018.06.20 Wednesday

      「歩いて行く」ルカによる福音書4:1-15

      0

        <聖書>

         4:1さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、 4:2荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた。 4:3そこで悪魔が言った、「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」。 4:4イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。 4:5それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて 4:6言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。 4:7それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。 4:8イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。 4:9それから悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。 4:10『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、 4:11また、『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』とも書いてあります」。 4:12イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』と言われている」。 4:13悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた。

         4:14それからイエスは御霊の力に満ちあふれてガリラヤへ帰られると、そのうわさがその地方全体にひろまった。 4:15イエスは諸会堂で教え、みんなの者から尊敬をお受けになった。

         

        口語訳聖書(1954年版) ルカによる福音書3:23-28

         翻訳というものはおもしろい。新約聖書は古代のギリシャ語で書かれている。新共同訳聖書と口語訳聖書、今日の箇所での大きな違いは、「言葉遣い」である。口語訳聖書では悪魔の言葉が「丁寧語」で訳されている。新共同訳聖書だともっと戦いを挑んでくるような勢いがあるが、口語訳聖書ではささやくようにやさしく悪魔は誘惑する。

         

         悪魔は三つの誘惑において、キリストを「人々が望む方法で神の国を建設する」方向へ誘導しようとしている。人々が望んでいるのは「パン」であり「食糧」である。貧困をなくして神の国を建設してはどうでしょうかと悪魔はささやく。

         人々は「ローマ帝国からの解放」を望んでいた。ひとつ世界の王になって、民をローマから解放し、神の国を建設したらどうでしょうかと悪魔は誘う。

         人々は「奇跡」を求めていた。惜しみなく奇跡を行って、人心を掌握されたらどうですか、そうすれば神の国を造ることができるでしょうと悪魔は提案する。

         

         三つの誘惑を観察すると、悪魔が「どこかから」キリストを「逸らせようとしている」ことが見えてくる。悪魔は十字架を恐れている。十字架の方に行ってほしくないのだ。その先には自分の破滅があるから。

         十字架の死による救い、という方法を誰も望んでいないし、予想してもいなかった。キリストは「人々が望まない方法で」神の国を建設しなければならなかった。神の国は十字架において到来しなければならなかった。

         

         悪魔の誘惑に打ち克つことにより、キリストは十字架への道をご自分で定められた。誘惑への勝利の先には、もう十字架が見える。人間の敗北の歴史、罪の歴史を背負って、この方は十字架と復活における勝利に向かって、歩いて行く。

        久居新生教会牧師 霤朕心鄂

        2018.06.13 Wednesday

        「坂を転がる石」ルカによる福音書3:28-38

        0

          <聖書>

           3:23イエスが宣教をはじめられたのは、年およそ三十歳の時であって、人々の考えによれば、ヨセフの子であった。ヨセフはヘリの子、 3:24それから、さかのぼって、マタテ、レビ、メルキ、ヤンナイ、ヨセフ、 3:25マタテヤ、アモス、ナホム、エスリ、ナンガイ、 3:26マハテ、マタテヤ、シメイ、ヨセク、ヨダ、 3:27ヨハナン、レサ、ゾロバベル、サラテル、ネリ、 3:28メルキ、アデイ、コサム、エルマダム、エル、 3:29ヨシュア、エリエゼル、ヨリム、マタテ、レビ、 3:30シメオン、ユダ、ヨセフ、ヨナム、エリヤキム、 3:31メレヤ、メナ、マタタ、ナタン、ダビデ、 3:32エッサイ、オベデ、ボアズ、サラ、ナアソン、 3:33アミナダブ、アデミン、アルニ、エスロン、パレス、ユダ、 3:34ヤコブ、イサク、アブラハム、テラ、ナホル、 3:35セルグ、レウ、ペレグ、エベル、サラ、 3:36カイナン、アルパクサデ、セム、ノア、ラメク、 3:37メトセラ、エノク、ヤレデ、マハラレル、カイナン、 3:38エノス、セツ、アダム、そして神にいたる。

          口語訳聖書(1954年版) ルカによる福音書3:23-28

           ルカによる福音書では、この系図の後に四十日間の「荒れ野での誘惑」の出来事が記されている。悪魔がキリストを誘惑したのだ。

           「系図」の後に「誘惑」の記述があるのは偶然でない。系図とはすなわち人間の歴史であり、人間の歴史は悪魔の誘惑との戦いの歴史、罪との戦いの歴史であった。そのすべての歴史と罪を背負い、キリストは荒れ野で誘惑を受けられたのだ。

           

           旧約聖書を開けば、そこには神と人間の物語、歴史が記されている。人間は敗れ続けてきた。力への誘惑、神ならぬものの礼拝への誘惑、神を試す誘惑、これらの罪のいざないにいつも屈してきた。人間は永遠に負け続けるのだろうか。悪魔は最後まで高笑いを続けるのか。

           

           今日の聖書の箇所に、「系図」が記されているのは、イエス・キリストが、罪との戦いの歴史に終止符を打つ方として来られたことを表している。

          3:23イエスが宣教をはじめられたのは、年およそ三十歳の時であって、人々の考えによれば、ヨセフの子であった。

           歴史の様相が根本的なところで変化を始めた。それはすでにキリストの誕生によって始まっていたが、「宣教の開始」により石は坂を転がりだした。やがて、この石は十字架と復活の出来事により、死と罪の力を打ち砕く。

           

           これからも、人間は負け続けるように見えるかもしれない。しかし、既に戦いは終わった。だからこの「終わり」から、私達の戦いを始めよう。戦いが終わったからこそ、戦い続ける。決して負けることはない。およそ三十歳の人にして神の子、この方の勝利を、私は信じる。

          久居新生教会牧師 霤朕心鄂

          2018.06.06 Wednesday

          「見えざる手」ルカによる福音書3:15-22

          0

            <聖書>

             3:15民衆は救主を待ち望んでいたので、みな心の中でヨハネのことを、もしかしたらこの人がそれではなかろうかと考えていた。3:16そこでヨハネはみんなの者にむかって言った、「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けるが、わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。 3:17また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。

             3:18こうしてヨハネはほかにもなお、さまざまの勧めをして、民衆に教を説いた。 3:19ところが領主ヘロデは、兄弟の妻ヘロデヤのことで、また自分がしたあらゆる悪事について、ヨハネから非難されていたので、 3:20彼を獄に閉じ込めて、いろいろな悪事の上に、もう一つこの悪事を重ねた。

             3:21さて、民衆がみなバプテスマを受けたとき、イエスもバプテスマを受けて祈っておられると、天が開けて、 3:22聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声がした、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

            口語訳聖書(1954年版) ルカによる福音書3:15-22

             母教会(出身の教会)の講壇の上には、洗礼槽というものがあった。深さは中に立つと頭が見えるくらい、広さはお風呂二つ分くらいだったと思う。私はそこで、全身水に浸かってバプテスマ(洗礼)を受けた。

             水から上がると、景色が少し変わっていた。色合いが変わったというような微細な変化である。洗礼に魔術的な力はない。しかし、救いの力がある。罪に支配された古い人生に終止符を打ち、キリストにあって新しい人生を始めさせる力がある。

             

            3:16 このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。

             「火」は「裁き」を意味する。「聖霊と裁き」、使徒パウロはこれを「命と死」という言葉で表現した。

            6:3それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。 6:4すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。」(ローマ人への手紙6:3-4)

             

             洗礼者ヨハネは、「このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう」と言った。「この方」、「キリストご自身」がバプテスマを授けるのである。

             どんな牧師が洗礼を授けようとも、聖霊においてバプテスマを授けているのは、キリストなのである。

             自分の洗礼においても、自分が見て来た洗礼においても、これから見る洗礼においても、我々は信仰の眼によって、見えざるキリストの御手を見るであろう。キリストの洗礼に立ち会うであろう。

            久居新生教会牧師 霤朕心鄂

            Calendar
               1234
            567891011
            12131415161718
            19202122232425
            262728293031 
            << August 2018 >>
            Selected Entries
            Categories
            Archives
            Recent Comment
            Links
            Profile
            Search this site.
            Others
            Mobile
            qrcode
            Powered by
            30days Album
            無料ブログ作成サービス JUGEM