2018.04.04 Wednesday

「足元に目を落とせば」ヨハネによる福音書21:15-19

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    <聖書>

     21:15彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。 21:16またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。 21:17イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。 21:18よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。 21:19これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。

    口語訳聖書(1954年版)ヨハネによる福音書21:15-19

     

     ペテロは確かにキリストを愛している。しかし、同時に愛せないことも知っている。かつて、ペテロは「あなたのためには、命も捨てます」と断言した。決意は貫徹されなかった。彼は三度キリストを知らないと言い、逃げ出した。

     

     聖書における罪とは神に対する背きのことであるが、それは時として「背筋が凍るような愛の欠如」として現れる。ペテロは内なる氷の刃に気付いてしまった。彼はキリストを愛している。同時に愛していない。

     

     復活のキリストが三度「わたしを愛するか」と問われる度に、ペトロは打ち砕かれた。「心を痛めた」。本当に痛かったのである。キリストの三度の問いかけは、ペテロの罪に対する容赦のない裁きである。同時に、ペテロの三度の否認を打ち消す、限りのない赦しである。

     神の裁きと赦しにおいて、ペテロは愛しているのに愛せない自分を知った。ここから彼の「再生」が始まる。不思議なことに、愛せないことを知った者こそが、神と人を愛する者へと、変えられていくのである。

     

    しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。21:18

     この言葉は、ペトロがやがて十字架に架けられて死ぬことを予告している。実際に、彼はローマ皇帝ネロの迫害によって殉教したと伝えられている。

     私は殉教を礼賛するつもりはない。ただ、ペテロの死は、イエスという方に対する愛故の死だったのだと思う。天寿を全うして神の栄光を現す人もいるだろう。どちらにしても、大切なことは、命そのものを神への愛として燃焼し切ることである。

     

     ペテロの再生の始まりに際して、キリストは言われた。

    わたしに従ってきなさい。」(21:19

     己の罪を知らないペテロはもういない。愛する方の裁きと赦しによって、彼はもう新しい道を歩いている。

     

    久居新生教会 牧師 霤朕心鄂

    2018.03.28 Wednesday

    「盲点の中」ヨハネによる福音書19:31-37

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      <聖書>

       19:31さてユダヤ人たちは、その日が準備の日であったので、安息日に死体を十字架の上に残しておくまいと、(特にその安息日は大事な日であったから)、ピラトに願って、足を折った上で、死体を取りおろすことにした。 19:32そこで兵卒らがきて、イエスと一緒に十字架につけられた初めの者と、もうひとりの者との足を折った。 19:33しかし、彼らがイエスのところにきた時、イエスはもう死んでおられたのを見て、その足を折ることはしなかった。 19:34しかし、ひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た。 19:35それを見た者があかしをした。そして、そのあかしは真実である。その人は、自分が真実を語っていることを知っている。それは、あなたがたも信ずるようになるためである。 19:36これらのことが起ったのは、「その骨はくだかれないであろう」との聖書の言葉が、成就するためである。 19:37また聖書のほかのところに、「彼らは自分が刺し通した者を見るであろう」とある。

      口語訳聖書(1954年版)ヨハネによる福音書19:31-37

       

       人間の視界には「盲点」と呼ばれる領域が存在する。例えば、白紙に小豆ほどの大きさの黒点を書いて盲点の位置に持って来ると、黒点は消えてしまう。正確に言えば、見えなくなる。盲点の領域にあるものを、人は見ることができないのだ。

       不思議なことは、黒い点を書いた紙を顔の前からどかせたとき、盲点のあたりの景色がちゃんと「見えているように感じる」ことである。これはなぜか。脳が本人の意志に関係なく、視覚情報を「補正」しているからである。補っていると言った方がよいだろうか。本当は見えていないのだが、脳が「あるはずのもの」を補っているのである。だから、普段人は自分の盲点を意識することなどほとんどない。白紙上の黒点が、我々の実感に反して、盲点の存在という事実を突きつけるのみである。

       

      19:37また聖書のほかのところに、「彼らは自分が刺し通した者を見るであろう」とある。

       私は自分が突き刺した人を見たくない。いや、私はきっと無意識に自分が突き刺した者を、盲点に押しやっているだろう。自分が傷つけ、損なってしまった人たちのことを。

       私だけではない。多かれ少なかれ、私が出会ってきた人々は皆、自分に都合の悪いことを、自動的になかったことにする機構を、脳内に持っていた。なぜ人間の脳がこのような機能を持つようになったのか、理由の類推は難しくない。心がもたないからだ。自分の罪責を直視することは、精神を崩壊させるリスクを伴うからだ。だから、我々の脳は、無断でそっと都合の悪い情報を盲点に隠すのである。

       

       「19:37彼らは自分が刺し通した者を見るであろう。」この言葉は、旧約聖書ゼカリヤ書12:10からの引用である。

      わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ。」(ゼカリヤ書12:10)

       「恵みと祈りの霊」は「聖霊」と言い換えてもよいだろう。神の霊を注がれる時、人は初めて自分が刺し貫いた者を、認識するのだ。

       福音書記者ヨハネは、「その刺した者」をキリストのことと理解して、引用している。預言者ゼカリヤは、人々が自分たちの刺し貫いた者を見る時、「ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ」と語っている。

       

       聖書を読み、礼拝に行き、説教を聞くことの不思議は、どうも自分の罪責のために死んだ方がいるということ、自分がこの方を突き刺したのだということが、受容されることであり、この方の死に心を痛めるということが起こることである。

       イエスという方は、我々の盲点に隠れている。だから見失うことも多いのだ。盲点に隠れているのは、イエスという方を刺し貫いたという罪責だけではない。

       19:34しかし、ひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た。

       キリストの「血と水」は、永遠の命を与える血と水である。目をそむけたくなる場所に、心から望むものがある。

       

      久居新生教会 牧師 霤朕心鄂

      2017.04.13 Thursday

      「途中で終わる人生ならば」ヨハネによる福音書19:28-30

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        <聖書>

         19:28そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。 19:29そこに、酢いぶどう酒がいっぱい入れてある器がおいてあったので、人々は、このぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎に結びつけて、イエスの口もとにさし出した。 19:30すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。

        口語訳聖書(1954年版)ヨハネによる福音書19:28-30

         「人の人生は一つのトルソーに過ぎない」という趣旨の言葉を残した神学者がいる。トルソーとは首と手足のない胴体だけの彫刻のことである。彼自身の人生もまさにトルソーだった。婚約者がいた。彼はこんな言葉も残している。「愛するとき、人は生きたいと思う。どんなことよりも生きたいと思う。」婚約者を残して、三十九歳の時に彼は死んだ。

         しかし、彼はたとえ長寿を全うしようと、いかに偉大なる功績を残そうと、すべての人生はトルソーに過ぎないのだと言う。人はみな「途中で」死ぬのだ。

         

         キリストが死なれたのは三十歳を過ぎたころである。人間の目から見れば、途中で挫折した未完成の人生のように見えるかもしれない。しかし、キリストは「すべてが終わった」と言われた。これは「すべては成し遂げられた、完成した」という意味である。「すべて」とは「神の御心」のことである。十字架の死によって救いをもたらすのが神の御心であった。人間の目には未完成に見えるもののなかに、神の御心が実現しているのである。

         

         私はこの十字架における御心の成就という固い地盤の上を歩く。自分の人生だって未完成で終わる。自己実現も大事だし、自分の人生に対する計画を実現することにもそれなりに意味がある。けれども、それより大切なことは、未完成の人生のただ中に神の計画が実現することだ。

         心に留めるのは、神が自分の人生に何を望んでおられるのかということ。神の御心が実現する人生は、たとえ未完成であっても、きっと美しい。

        久居新生教会 牧師 霤朕心鄂

        2017.04.05 Wednesday

        「頭が上がらない」ヨハネによる福音書19:23-27

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          <聖書>

           19:23さて、兵卒たちはイエスを十字架につけてから、その上着をとって四つに分け、おのおの、その一つを取った。また下着を手に取ってみたが、それには縫い目がなく、上の方から全部一つに織ったものであった。 19:24そこで彼らは互に言った、「それを裂かないで、だれのものになるか、くじを引こう」。これは、「彼らは互にわたしの上着を分け合い、わたしの衣をくじ引にした」という聖書が成就するためで、兵卒たちはそのようにしたのである。 19:25さて、イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹と、クロパの妻マリヤと、マグダラのマリヤとが、たたずんでいた。 19:26イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母にいわれた、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。 19:27それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。

          口語訳聖書(1954年版)ヨハネによる福音書19:23-27

           

           僕がレイコさんと会うのは十ヵ月ぶりだったが、彼女と二人で歩いていると僕の心は不思議にやわらぎ、慰められた。そして以前にも同じような思いをしたことがあるなという気がした。考えてみれば直子と二人で東京の街を歩いていたとき、僕はこれとまったく同じ思いをしたのだ。かつて僕と直子がキズキという死者を共有していたように、今僕とレイコさんは直子という死者を共有しているのだ。そう思うと、僕は急に何もしゃべれなくなってしまった。

          『ノルウェイの森 下』、村上春樹、講談社、1987年、単行本232頁

           

           今、母マリアと一人の弟子はキリストの死に直面している。キリストは十字架の上でご自身の体が引き裂かれるその時に、二人の人間を結び付けようとしている。

           キリスト者相互を結び付けるものは、キリストの死である。聖餐式のときには次の聖書言葉を読み上げる。

          だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主が来られる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」(コリント人への手紙一11:26)

           

           離れている友や仲間に、そうしょっちゅう会いたいとは思わない。もちろん会えたらとてもうれしい。けれども、我々はいつもイエスという方の死を共有している。その死を宣べ伝えている。だからまあ、さみしくはない。

           

           大事な人の死が、人と人を結び合わせることがある。キリストの死が信ずるすべての人を結びつけるのは、この方がそれぞれの人にとって一番大切な人だからだ。母マリアにとっても、一人の弟子にとってもそうだったろう。この方が大切なのは、私の救いのために命を投げ打った唯一人の方だからだ。この方だけには頭が上がらないからだ。

           

          久居新生教会 牧師 霤朕心鄂

          2016.06.01 Wednesday

          「目をひらけばそこに」ヨハネによる福音書9:35-41

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            <聖書>

             イエスは、その人が外へ追い出されたことを聞かれた。そして彼に会って言われた、「あなたは人の子を信じるか」。彼は答えて言った、「主よ、それはどなたですか。そのかたを信じたいのですが」。イエスは彼に言われた、「あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である」。すると彼は、「主よ、信じます」と言って、イエスを拝した。そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲なのでしょうか」。イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。

            口語訳聖書(改定前) ヨハネによる福音書9章35節から41節

             信じるために、また信じ続けていくために必要なのは、キリストの言葉を聴き、姿を見ることである。

             「あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である。」(37節)

             キリストの言葉が聴こえないと思っている人こそが、キリストの言葉を聴いている。キリストの姿が見えないと思っている人こそがキリストを見ている。その方の声は初めて聴く声であるのにどこか懐かしく、初めて見る姿であるのに見覚えがある。それは自分が知らない内に聴いていた声、見ていた姿だからである。

             「あなたは、もうその人に会っている。」この言葉が我々の目をひらく。ただそれにまかせて目をひらけばよい。この方はいつも目の前におられる。目をひらけばそこにいる。目がひらかれるのを待っている。

            久居新生教会 牧師 霤朕心鄂

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