2017.04.13 Thursday

「途中で終わる人生ならば」ヨハネによる福音書19:28-30

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    <聖書>

     19:28そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。 19:29そこに、酢いぶどう酒がいっぱい入れてある器がおいてあったので、人々は、このぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎に結びつけて、イエスの口もとにさし出した。 19:30すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。

    口語訳聖書(1954年版)ヨハネによる福音書19:28-30

     「人の人生は一つのトルソーに過ぎない」という趣旨の言葉を残した神学者がいる。トルソーとは首と手足のない胴体だけの彫刻のことである。彼自身の人生もまさにトルソーだった。婚約者がいた。彼はこんな言葉も残している。「愛するとき、人は生きたいと思う。どんなことよりも生きたいと思う。」婚約者を残して、三十九歳の時に彼は死んだ。

     しかし、彼はたとえ長寿を全うしようと、いかに偉大なる功績を残そうと、すべての人生はトルソーに過ぎないのだと言う。人はみな「途中で」死ぬのだ。

     

     キリストが死なれたのは三十歳を過ぎたころである。人間の目から見れば、途中で挫折した未完成の人生のように見えるかもしれない。しかし、キリストは「すべてが終わった」と言われた。これは「すべては成し遂げられた、完成した」という意味である。「すべて」とは「神の御心」のことである。十字架の死によって救いをもたらすのが神の御心であった。人間の目には未完成に見えるもののなかに、神の御心が実現しているのである。

     

     私はこの十字架における御心の成就という固い地盤の上を歩く。自分の人生だって未完成で終わる。自己実現も大事だし、自分の人生に対する計画を実現することにもそれなりに意味がある。けれども、それより大切なことは、未完成の人生のただ中に神の計画が実現することだ。

     心に留めるのは、神が自分の人生に何を望んでおられるのかということ。神の御心が実現する人生は、たとえ未完成であっても、きっと美しい。

    久居新生教会 牧師 霤朕心鄂

    2017.04.05 Wednesday

    「頭が上がらない」ヨハネによる福音書19:23-27

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      <聖書>

       19:23さて、兵卒たちはイエスを十字架につけてから、その上着をとって四つに分け、おのおの、その一つを取った。また下着を手に取ってみたが、それには縫い目がなく、上の方から全部一つに織ったものであった。 19:24そこで彼らは互に言った、「それを裂かないで、だれのものになるか、くじを引こう」。これは、「彼らは互にわたしの上着を分け合い、わたしの衣をくじ引にした」という聖書が成就するためで、兵卒たちはそのようにしたのである。 19:25さて、イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹と、クロパの妻マリヤと、マグダラのマリヤとが、たたずんでいた。 19:26イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母にいわれた、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。 19:27それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。

      口語訳聖書(1954年版)ヨハネによる福音書19:23-27

       

       僕がレイコさんと会うのは十ヵ月ぶりだったが、彼女と二人で歩いていると僕の心は不思議にやわらぎ、慰められた。そして以前にも同じような思いをしたことがあるなという気がした。考えてみれば直子と二人で東京の街を歩いていたとき、僕はこれとまったく同じ思いをしたのだ。かつて僕と直子がキズキという死者を共有していたように、今僕とレイコさんは直子という死者を共有しているのだ。そう思うと、僕は急に何もしゃべれなくなってしまった。

      『ノルウェイの森 下』、村上春樹、講談社、1987年、単行本232頁

       

       今、母マリアと一人の弟子はキリストの死に直面している。キリストは十字架の上でご自身の体が引き裂かれるその時に、二人の人間を結び付けようとしている。

       キリスト者相互を結び付けるものは、キリストの死である。聖餐式のときには次の聖書言葉を読み上げる。

      だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主が来られる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」(コリント人への手紙一11:26)

       

       離れている友や仲間に、そうしょっちゅう会いたいとは思わない。もちろん会えたらとてもうれしい。けれども、我々はいつもイエスという方の死を共有している。その死を宣べ伝えている。だからまあ、さみしくはない。

       

       大事な人の死が、人と人を結び合わせることがある。キリストの死が信ずるすべての人を結びつけるのは、この方がそれぞれの人にとって一番大切な人だからだ。母マリアにとっても、一人の弟子にとってもそうだったろう。この方が大切なのは、私の救いのために命を投げ打った唯一人の方だからだ。この方だけには頭が上がらないからだ。

       

      久居新生教会 牧師 霤朕心鄂

      2016.06.01 Wednesday

      「目をひらけばそこに」ヨハネによる福音書9:35-41

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        <聖書>

         イエスは、その人が外へ追い出されたことを聞かれた。そして彼に会って言われた、「あなたは人の子を信じるか」。彼は答えて言った、「主よ、それはどなたですか。そのかたを信じたいのですが」。イエスは彼に言われた、「あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である」。すると彼は、「主よ、信じます」と言って、イエスを拝した。そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲なのでしょうか」。イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。

        口語訳聖書(改定前) ヨハネによる福音書9章35節から41節

         信じるために、また信じ続けていくために必要なのは、キリストの言葉を聴き、姿を見ることである。

         「あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である。」(37節)

         キリストの言葉が聴こえないと思っている人こそが、キリストの言葉を聴いている。キリストの姿が見えないと思っている人こそがキリストを見ている。その方の声は初めて聴く声であるのにどこか懐かしく、初めて見る姿であるのに見覚えがある。それは自分が知らない内に聴いていた声、見ていた姿だからである。

         「あなたは、もうその人に会っている。」この言葉が我々の目をひらく。ただそれにまかせて目をひらけばよい。この方はいつも目の前におられる。目をひらけばそこにいる。目がひらかれるのを待っている。

        久居新生教会 牧師 霤朕心鄂