2017.07.12 Wednesday

「うねる穂波を見つめている」マタイによる福音書9:35-38

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    <聖書>

    9:35イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。 9:36また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。9:37そして弟子たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。 9:38だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。

    口語訳聖書(1954年版) マタイによる福音書9:35-38

    実れる田の面は 見渡す限り、

    穂波の立ちつつ 日影ににおう。

    垂穂は色づき 敏鎌を待てり、

    いざいざ刈らずや、 時すぎぬまに。

    讃美歌(1954年版)504番より

     

     一九五四年版の讃美歌の一節である。稲が育つと田の面(たのも)を風が撫でつける。風の音を聞くことはできても、風の姿を見ることはできない。しかし、穂波の立つ時期には稲の穂を通して、風の波を見ることができる。そして穂波は収穫の香りをも運ぶ。実りの重さで湾曲した垂穂(たりほ)は色づき、今や収穫を待つばかりである。

     

     人々は「弱り果てて、倒れて」いた。民衆は疲れ果てている。「飼う者のいない羊のように」誰に助けを求めてよいのかさえ分からないでいる。

     この人たちを見てキリストは「収穫は多い」と言われた。世間からは収穫にならんと見捨てられた人々である。人が荒れ野しか見出せないところに、キリストは豊かな収穫を見る。

     

     世間に目を向けてみる。少なくとも、私の目には収穫らしきものは全く映らない。しかし、キリストは同じ景色の中に、穂波と垂穂を見ておられる。

     聖書は人を殺してはならない理由を、人が神にかたどって造られたからだと教える。神の前に一個の命は無条件に尊い。もし、世間が人の命は無条件に尊いという当たり前の前提を踏みにじるようになるならば、救いを求めて叫ぶ魂がそこら中にあふれるであろう。いや、もうすでにあふれ出している。我々が見過ごしているだけだ。

     イエスという方はそのような人々を「直接」見て、「深くあわれまれた」。「深くあわれむ」という言葉は、新約聖書の書かれたギリシャ語では「はらわた」という言葉からできた。「直接見て」、「はらを痛める」。直接見なければ腹は痛まない。言葉にならない痛みは、誰にも説明することなどできない。

     

     イエスという方にとって、救いを求めて叫ぶ見捨てられた魂こそ、神に祝福された収穫であった。この方ははらを痛めながら、心を痛めながら、それでも少し笑って、風にうねる穂波を見つめている。

    久居新生教会 牧師 霤朕心鄂