2018.10.03 Wednesday

「それが一番大事」マタイによる福音書5:6

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    <聖書>

    5:6義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
    彼らは飽き足りるようになるであろう。

    口語訳聖書(1954年版) マタイによる福音書5:6

     正しく生きたかった。例えば世界が琵琶湖くらい大きな肥溜めだったとして、毎日手作業で掃除するような仕事がしたかった。自分も肥溜めを汚している人間の一人だと知ったのは後のことだ。

     

    5:6義に飢えかわいている人たちは、さいわいである

     

     今は正しく生きているか?少なくとも飢え渇きの根はいやされた。イエス・キリストの死において、神が「義」を与えてくださったからである。渇きの枝はまだ残っている。正しい世界を求めている。私に義を与えられた神が、この歴史に義を打ち立てられる日を待ち望んでいる。この渇きは歴史の終末まで、私の生涯の終わりまで続くだろう。

     

     今はもう正しく生きたいと思っていない。

     以前、批評家の若松英輔さんが、「大切なのはどう生きるかではなく、何に生かされているかだ」という趣旨の発言をしていた。若松さんを生かしているものとは、「悲しみ」であったのかもしれないし、「先に逝った人」だったのかもしれない。

     私を生かしているのは、イエスという方の死だ。それが一番大事。正しいことは、加えて与えられる。

     

    久居新生教会牧師 霤朕心鄂

    2018.05.02 Wednesday

    「慰めの抱擁」マタイによる福音書5:4

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      <聖書>

      5:4悲しんでいる人たちは、さいわいである、
      彼らは慰められるであろう。

      口語訳聖書(1954年版) マタイによる福音書5:4

       慰められる「であろう」とわざわざ訳されているのは、原文のギリシャ語が「未来形」で書かれているからである。この未来形が意味するところは、将来、「歴史の終末」において、悲しんでいる人々が真正な慰めを受けるということだ。

       聖書における「終末」は、確かに恐ろしい裁きの時でもあるが、同時に神がすべての涙をぬぐい去ってくださる慰めの日でもある。

       

       旧約聖書には、やがて起こるメシア(キリスト)の到来において、贖い(救済)と終末が共に実現すると書いてある。贖いと終末はセットなのである。だから、キリストが「彼らは慰められるであろう」と言われた時、ほぼ間違いなく、「贖いと終末」の両方を念頭に置いていた。終末だけではないのだ。

       「贖い」とはキリストの誕生、十字架と復活における「罪の贖い」のことである。

      5:4悲しんでいる人たちは、さいわいである、
      彼らは慰められるであろう。

       涙の国の悲しみを知る人は、やがて十字架のキリストに出会う。悲しみは贖いの内に置かれ、涙は慰めの抱擁を受ける。

       

       「悲しんでいる人たち」と聞く時、思い浮かぶ顔がある。彼らはいつか十字架のイエスにお会いするだろう。もしくは、その悲しみは既に贖いの内に置かれているであろう。

       十字架あればこそ、終末は希望となる。すべての涙が拭われる日まで、生きてゆく。

       

      久居新生教会 牧師 霤朕心鄂

      2017.07.12 Wednesday

      「うねる穂波を見つめている」マタイによる福音書9:35-38

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        <聖書>

        9:35イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。 9:36また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。9:37そして弟子たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。 9:38だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。

        口語訳聖書(1954年版) マタイによる福音書9:35-38

        実れる田の面は 見渡す限り、

        穂波の立ちつつ 日影ににおう。

        垂穂は色づき 敏鎌を待てり、

        いざいざ刈らずや、 時すぎぬまに。

        讃美歌(1954年版)504番より

         

         一九五四年版の讃美歌の一節である。稲が育つと田の面(たのも)を風が撫でつける。風の音を聞くことはできても、風の姿を見ることはできない。しかし、穂波の立つ時期には稲の穂を通して、風の波を見ることができる。そして穂波は収穫の香りをも運ぶ。実りの重さで湾曲した垂穂(たりほ)は色づき、今や収穫を待つばかりである。

         

         人々は「弱り果てて、倒れて」いた。民衆は疲れ果てている。「飼う者のいない羊のように」誰に助けを求めてよいのかさえ分からないでいる。

         この人たちを見てキリストは「収穫は多い」と言われた。世間からは収穫にならんと見捨てられた人々である。人が荒れ野しか見出せないところに、キリストは豊かな収穫を見る。

         

         世間に目を向けてみる。少なくとも、私の目には収穫らしきものは全く映らない。しかし、キリストは同じ景色の中に、穂波と垂穂を見ておられる。

         聖書は人を殺してはならない理由を、人が神にかたどって造られたからだと教える。神の前に一個の命は無条件に尊い。もし、世間が人の命は無条件に尊いという当たり前の前提を踏みにじるようになるならば、救いを求めて叫ぶ魂がそこら中にあふれるであろう。いや、もうすでにあふれ出している。我々が見過ごしているだけだ。

         イエスという方はそのような人々を「直接」見て、「深くあわれまれた」。「深くあわれむ」という言葉は、新約聖書の書かれたギリシャ語では「はらわた」という言葉からできた。「直接見て」、「はらを痛める」。直接見なければ腹は痛まない。言葉にならない痛みは、誰にも説明することなどできない。

         

         イエスという方にとって、救いを求めて叫ぶ見捨てられた魂こそ、神に祝福された収穫であった。この方ははらを痛めながら、心を痛めながら、それでも少し笑って、風にうねる穂波を見つめている。

        久居新生教会 牧師 霤朕心鄂

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