2017.10.18 Wednesday

「恵みの川」創世記2:4-17

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    <聖書>

     2:4これが天地創造の由来である。

     主なる神が地と天とを造られた時、 2:5地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。 2:6しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。 2:7主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。 2:8主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。 2:9また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。 2:10また一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、そこから分れて四つの川となった。 2:11その第一の名はピソンといい、金のあるハビラの全地をめぐるもので、 2:12その地の金は良く、またそこはブドラクと、しまめのうとを産した。 2:13第二の川の名はギホンといい、クシの全地をめぐるもの。 2:14第三の川の名はヒデケルといい、アッスリヤの東を流れるもの。第四の川はユフラテである。

     2:15主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。 2:16主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。 2:17しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

    口語訳聖書(1955年版) 創世記2:4-17

     

     土の塵から造られ、神の息によって生きる者となった一人の人間は、やがて「善悪を知る木の実」を食べ、エデンの園を追放されることとなる。

     楽園を追放される以前、そこには「神と人との本来の関係」が生きていた。園を守る使命、どの木からも食べてよいという自由、善悪を知る木から食べてはいけないという禁止。

     

     アダムとエバを追放する際、神は次のように言われた。

    見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。

     ここから、善悪を知る木から食べることは、「神の如くならんとすること」であったということが分かる。

     

     自分で自分を赦す時、人は自分の神になろうとしている。他者を殺す時、人は他者の神になろうとしている。赦しは神のもとにあり、人の命はただ神の御手の内にある。一線を越えてはいけないのだ。

     

     キリストの十字架の死は、神の如くなろうとせずにはおれない一人の人間に問いかける。あなた自身が倦み疲れ果てているではないかと。せめて自分の神にくらいはなりたいのになれなくて。罪から自由になりなさい。神を信じる自由に生きなさいと。

     

     エデンの園からは四つの川が流れ出しており、流域は豊かな鉱物の産地であったという。神との本来の関係があるところから、神の恵みは流れ出す。

     罪赦された人のもとから、神の恵みは流れ出す。その流れは、罪に苦しむ誰かを潤し、神のもとへ導くだろう。

     

    久居新生教会 牧師 霤朕心鄂

    2017.10.11 Wednesday

    「赦された罪人に」創世記2:1-3

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      <聖書>

       2:1こうして天と地と、その万象とが完成した。 2:2神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。 2:3神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。

      口語訳聖書(1955年版) 創世記2:1-3

       子どもたちの眠っている姿を見ると、柔らかな気持ちになる。そしてどこか満ち足りたような心で、自分自身もふとんに入る。

       

       神が休まれた時、ただ作業が終わったから休んだのではない。1:31にはこう書かれている。

       

       1:31神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。

       

       「良かった」という言葉は、良い悪いの良いではなくて、「美しい、素晴らしい」という語感の言葉である。ただ仕事が終わったから休んだのではない。我が子の寝顔を見るようにして、造られたものに目を注ぎ、満ち足りてふとんに入るように休まれたのである。

       

       ヨハネによる福音書3:16にこんな言葉がある。

       

      3:16神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

       

       我が子の寝顔を眺めるような神の愛は、やがて神の独り子イエス・キリストを世に与えるという仕方で、その全貌をあらわした。

       御子を信じて永遠の命を約束された人は、寝顔をそっと見るような神のまなざしの中を、新しく生きる。今日も注がれている。「あなたは美しい。あなたは素晴らしい」と。赦された罪人に。

       

      久居新生教会 牧師 霤朕心鄂

      2017.10.04 Wednesday

      「神のかたち」創世記1:6-31

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        <聖書>

         1:6神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。 1:7そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。 1:8神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。

         1:9神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。 1:10神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。 1:11神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。 1:12地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。 1:13夕となり、また朝となった。第三日である。

         1:14神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、1:15天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。 1:16神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。 1:17神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、 1:18昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。 1:19夕となり、また朝となった。第四日である。

         1:20神はまた言われた、「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」。 1:21神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた。 1:22神はこれらを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、海の水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」。 1:23夕となり、また朝となった。第五日である。

         1:24神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。そのようになった。 1:25神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。

         1:26神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。 1:27神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。 1:28神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。 1:29神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。 1:30また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。 1:31神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。

         

        口語訳聖書(1955年版) 創世記1:6-31

         

         「動物は祈らない。」一人の生物学者が出した結論だそうだ。ある方の講演の中で聞いた。かなり人間に近い猿の仲間はいる。言葉のようなものを持つ動物もいる。だが祈る動物はいない。礼拝もしない。当然宗教もない。

         

         「 1:27神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

         聖書は人間が神にかたどって、「神のかたち」に創造されたと教える。すべての人間に「神のかたち」がある。

         「神のかたち」とはいったい何なのか、いくつかの説がある。私としては「神の対話の相手として」創造されたという理解に立ちたいと思う。対話の在り方の一つが祈りなのだ。

         

         伝道の書3:11(新共同訳聖書では『コヘレトの言葉』)には次のような言葉がある。

        神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。

         祈らない人でも「永遠を思う思い」を持っている。人が絶望するのも希望するのも、永遠を思う心を持っているからではないだろうか。永遠を思う時、それと知らずとも、神との対話が始まっているのだ。

         

         旧約聖書の民、イスラエルの民は内なる偶像礼拝と戦い続けた。どんなに美しい神の像も、神のかたちを表しはしない。神のかたちは像の中にではなく、「人間の中に」あるのだ。神を知るには「神のかたち」を見ればよい。人間を見ればよい。そこに神のかたちがある。

         問題は、新約聖書的な観点から言えば、「罪」のために人間の中にある神のかたちは「損なわれている」ということである。失われてはいないが損なわれている。

         

         だが一人例外がいる。

        1:15御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。」(コロサイの信徒への手紙1:15)

         御子イエス・キリストだけは、完全な神のかたちを持っている。外見のことではない。この方の人格の内に、神の姿は完全に表されている。神のかたちと持つというよりは、神の子として「神のかたちそのもの」なのだ。

         だから、神を知りたければ、神を見たければ、キリストを見るのだ。

         

         この方の十字架の死と復活は、信ずる者に神のかたちの回復をもたらす。神との新しい対話の命が始まるのだ。

         神のかたちを回復され、イエス・キリストに神のかたちを見る者は、人の中にも神のかたちを見出していくだろう。人間の尊厳がそこに輝いている。それは我々の目を奪い、敬意を付与する。敬うことから、愛することもまた、始まるだろう。

         

        久居新生教会 牧師 霤朕心鄂

        2017.09.20 Wednesday

        「夕となりまた朝となった」創世記1:1-5

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          <聖書>

          1:1はじめに神は天と地とを創造された。 1:2地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。

          1:3神は「光あれ」と言われた。すると光があった。 1:4神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。1:5神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。

          口語訳聖書(1955年版) 創世記1:1-5

           

           「形なく、むなしく」という言葉は、新共同訳聖書では「混沌」(カオス)と訳されている。「混沌」は単に遠い昔に存在したものではない。旧約聖書のエレミヤ書の中で預言者エレミヤは次のように語っている。

           

           「わたしは地を見たが、
          それは形がなく、またむなしかった
          天をあおいだが、そこには光がなかった」(エレミヤ書4:23)

           

           エレミヤがこう語ったのは、戦争によって母国と故郷が破壊しつくされた時だった。彼は明らかに天地創造の混沌と闇を念頭に置いている。混沌と闇は過去のものではない。

           

           自分の内と外に「混沌」は存在する。逃げ切ることはできない。向き合うしかない。しかし勝ち目はない。「光」がなければ、混沌と向き合うことはできない。

           

           キリストの十字架の出来事は、天地創造が新しく起こったような光の出来事であった。キリストが十字架に架けられた時、全地は闇に覆われたという。この闇は天地創造の時にもあったのである。

           「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコよる福音書15:34)十字架の上で叫んだ言葉、太古の闇をくまなく照らすような光の言葉である。単なる絶望の叫びに聞こえるかもしれない。確かにここには深い絶望がある。けれども、この方は絶望していても神につかみかからんばかりに叫ぶことができたのだ。神から最も見離された場所で、誰よりも神に近く在ったのだ。

           

           「1:5夕となり、また朝となった。第一日である。

           聖書の世界では日没に一日が始まり、日の出をもって一日が終わる。素敵ではないか。世界も人生も闇から始まって夜明けで終わるのだ。創造とキリストの光を見、新しく夜から朝への歩みを始める。その時が、私たちにとっての「第一の日」だ。

           

          久居新生教会 牧師 霤朕心鄂