2016.11.09 Wednesday

「今日も走っている」へブル人への手紙12:1-3

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    <聖書>

     こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。

    口語訳聖書(1954年版) へブル人への手紙12:1-3

     走ること自体は苦しくない。苦しくなるのは、「もう走れない」と体と心が叫びをあげているのに、走り続けなければならないときである。信仰の道も一人の人間の生涯も、ときに耐え難い苦しみを伴うレースとなる。

     イエス・キリストは走られた。「自分の前におかれている喜びのゆえに」。キリストの喜びは「反抗する罪人ら」が救われることであった。レースを走り抜くことは、「罪人ら」のために十字架に架かって死ぬことである。

     旧約聖書のイザヤ書に次のように書かれている。「彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。」(新共同訳聖書 イザヤ書53:11)キリストの喜びはあなたが救われることであった。あなたはキリストの「苦しみの実り」なのである。キリストの喜びなのである。

     

     我々も走る。自分のために走ってくださった方を見上げながら走る。このレースはマラソンではない。一人で走っているのではない。むしろ、駅伝に近い。たすきを渡されて走っているのだ。レースはもう終盤である。「このような多くの証人に雲のように囲まれている」。声援が聴こえる。たすきを渡してくれた者たちの声。地上の生涯を終え、先に逝った者たちの声が聴こえる。

     

     苦しいのは嫌だ。走ることであれ、人生であれ。きっと、ゴールで待っていてくれる人や、たすきを渡してくれた人たちの声援がなければ、走ることをやめていただろう。でも、こうして生きている。走っている。それはきっと、ゴールに喜んで迎えてくれる方がいるからなのだ。声援を送っている人たちがいるからなのだ。少しだけ力が湧いてくる。だから、私は今日も走っている。

     

    久居新生教会 牧師 霤朕心鄂

    2016.08.03 Wednesday

    「砂漠に隠された井戸」 ヘブル人への手紙11:1-3

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       さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。

      口語訳聖書(1954年版) へブル人への手紙11:1-3

       

       『星の王子さま』(サンテグ・ジュペリ著)は、「肝心なことは目に見えない」をテーマにした作品である。王子さまは、砂漠が美しいのは井戸を隠しているからだと言う。広大な砂漠の中にこんこんと水をたたえた井戸が存在しているという事実、それが乾ききった砂漠に美しさを与える。砂漠において井戸は隠されたところに存在している。井戸は砂漠にとって、「目に見えない肝心なもの」なのである。

       王子さまの言葉を聞いた主人公の「ぼく」は、幼い頃に過ごした古い家のことを思い出す。家の地下には宝が隠されているという言い伝えがあった。この言い伝えのために、古びた何の変哲もない家の全体が輝いて見えたというのだ。

       世界が神の言葉によって創造されたという信仰は、砂漠にとっての井戸であり、古びた家にとっての言い伝えである。神に創造された世界は美しい。全てのものが意味に満ちている。一人の人間が生きることにはちゃんとした意味がある。神に望まれて、人は生まれてきたのだ。

       生きることに疲れ、世界が砂漠に見える時、井戸が見出されることを願う。世界は美しい。あなたが生きていることは素晴らしい。

       

      久居新生教会牧師 霤朕心鄂