2017.08.02 Wednesday

「壁の向こうへ」ヨナ書4:1-11

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    <聖書>

    4:1ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、 4:2主に祈って言った、「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。 4:3それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。 4:4主は言われた、「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。 4:5そこでヨナは町から出て、町の東の方に座し、そこに自分のために一つの小屋を造り、町のなりゆきを見きわめようと、その下の日陰にすわっていた。

    4:6時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。 4:7ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。 4:8やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。 4:9しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。 4:10主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。 4:11ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。

    口語訳聖書(1955年版) ヨナ書4:1-11

     私は貧困について語ることができない。それは貧しい人と共に暮らし、その困窮に腹を痛めた身体的経験がないからだ。痛みの伴わない同情は、時に残酷である。

     

     ヨナは神の「惜しむ心」を体得するために、とうごまの木を失わなければならなかった。神がヨナをからかうようにしてとうごまの木を枯らしたことに、ヨナは本気で怒っている。「狂い死にそう」なほどに、とうごまの木を惜しんでいる。文字通り、はらわたが煮えくり返るような、深く身体的な怒りだったのだろう。

     あなたのはらわたが煮えくり返るのなら、滅びつつあったニネベの人たちのために、どれだけ私が腹を痛めていたか分かるだろう、と神は語りかける。

     

     まさしく、その点がヨナの怒りの淵源(えんげん)であった。とうごまの木のことは表層の問題に過ぎない。腹を痛めるほどの「惜しむ心」を、神が異邦の町ニネベに向けていることを、ヨナは許せなかったのだ。ヨナにとって、救われるべきはイスラエルの民(旧約聖書の民)であり、異邦人(外国人)ではなかった。

     我々の内なる大審問官は、あの人は素晴らしい、あいつは救われないだろうと、勝手に心の中で宗教裁判を行っている。救いからの脱落者という烙印こそが、実は救いのしるしなのである。

     

     神の「惜しむ心」は門の外に立つ人に向けられている。神の心は、我々の思うままにならないからこそ素晴らしい。どこまでも自由で、壁の向こうにも飛んでいける。我々が行けないところにも届く。

     たぶん、あの人も、あの人も、大丈夫だろう。神さまは自由だから。我々のあきらめなど笑って、壁を飛び越えてしまうことだろう。

     

    久居新生教会 牧師 霤朕心鄂

    2017.02.01 Wednesday

    「何ものも奪わず」ヨナ書1:27-2:11

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      <聖書>

       1:17主は大いなる魚を備えて、ヨナをのませられた。ヨナは三日三夜その魚の腹の中にいた。

       2:1ヨナは魚の腹の中からその神、主に祈って、 2:2言った、「わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。2:3あなたはわたしを淵の中、海のまん中に投げ入れられた。大水はわたしをめぐり、あなたの波と大波は皆、わたしの上を越えて行った。2:4わたしは言った、『わたしはあなたの前から追われてしまった、どうして再びあなたの聖なる宮を望みえようか』。2:5水がわたしをめぐって魂にまでおよび、淵はわたしを取り囲み、海草は山の根元でわたしの頭にまといついた。2:6わたしは地に下り、地の貫の木はいつもわたしの上にあった。しかしわが神、主よ、あなたはわが命を穴から救いあげられた。2:7わが魂がわたしのうちに弱っているとき、わたしは主をおぼえ、わたしの祈はあなたに至り、あなたの聖なる宮に達した。2:8むなしい偶像に心を寄せる者は、そのまことの忠節を捨てる。2:9しかしわたしは感謝の声をもって、あなたに犠牲をささげ、わたしの誓いをはたす。救は主にある」。
       2:10主は魚にお命じになったので、魚はヨナを陸に吐き出した。

      口語訳聖書(1954年版) ヨナ書1:17-2:11

       正月に妻の実家にいて、何となく本棚にあった『新巨人の星』を読んだ。『巨人の星』は言わずと知れた野球漫画の金字塔であり、『新巨人の星』はその続編である。

       主人公は星飛雄馬。左投げ、左打ちのピッチャー。『巨人の星』は彼が魔球の投げ過ぎで、左肩を壊して終わる。そして飛雄馬はどこかに去った。

       

       『新巨人の星』は人生の廃屋のような場所から始まる。肩を壊して失踪した飛雄馬であったが、野球をあきらめきることができずに、バッターとして草野球の助っ人をしていた。やがて、親友の協力でバッターとしての再起を計ることとなる。しかも、代打専門。左腕で投げれないから守備ができないのだ。

       父の星一徹だけが飛雄馬の運命を変え得る秘密を知っていた。しかし、それを口にしない。秘密を明かした先に飛雄馬のさらなる苦しみが待っていることを知っていたからである。

       実は飛雄馬は右利きだったのである。左投げ左打ちの方が野球選手には有利だとして、一徹が左利きであるかのように育てたのだ。

       

       肩を壊す前の飛雄馬は、卓越したコントロールが特徴のピッチャーだった。弱点は球質が軽いため、ミートされると簡単にホームランを打たれてしまうことだった。

       打者として再起をはかる飛雄馬が半ばやけになって、たまたま右手でボールを投げた時、周囲にいた者たちは驚いた。以前の軽い球とは違い、尋常ではないスピードと野性味、重さを帯びた球であった。

       コントロールは良いが球質の軽いピッチャーから、ノーコンだが鋭く重い球を投げるピッチャーへ。しかし、球を右手に持ち替えたところで、すぐにプロ野球の舞台で通用するはずもない。子どもに戻って一から野球をやり直すかのように、飛雄馬の血のにじむような努力が始まった。

       彼は左肩を永遠に失うことを通して、本来の自分として新しい野球人生を生き始めたのである。

       

       「しかしわが神、主よ、あなたはわが命を穴から救いあげられた。わが魂がわたしのうちに弱っているとき、わたしは主をおぼえ、わたしの祈はあなたに至り、あなたの聖なる宮に達した。」(2:6-7)

       本当に新しいことは、「全てが終わった」と思われる時に始まる。「もうおしまいだ」と言って天を仰ぐ時に、廃墟からの再生が始まる。

       

       今日の聖書の箇所は、注意して見ると、魚に預言者ヨナを呑み込ませ、吐き出させるという「神の行為」で始まり、「神の行為」で終わっている。ヨナは見えざる大能の神の御腕に抱かれているのだ。

       その腕の中で人はもがき苦しみ、叫びをあげる。再生はそこからはじまる。何ものも神の手から、その人を奪い取ることはできない。

       

      久居新生教会 牧師 霤朕心鄂

      2016.11.02 Wednesday

      「神の心の広さを語る 私の心は狭い」ヨナ書1:1-16

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        <聖書>

         主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」。しかしヨナは主の前を離れてタルシシへのがれようと、立ってヨッパに下って行った。ところがちょうど、タルシシへ行く船があったので、船賃を払い、主の前を離れて、人々と共にタルシシへ行こうと船に乗った。

         時に、主は大風を海の上に起されたので、船が破れるほどの激しい暴風が海の上にあった。それで水夫たちは恐れて、めいめい自分の神を呼び求め、また船を軽くするため、その中の積み荷を海に投げ捨てた。しかし、ヨナは船の奥に下り、伏して熟睡していた。そこで船長は来て、彼に言った、「あなたはどうして眠っているのか。起きて、あなたの神に呼ばわりなさい。神があるいは、われわれを顧みて、助けてくださるだろう」。

         やがて人々は互に言った、「この災がわれわれに臨んだのは、だれのせいか知るために、さあ、くじを引いてみよう」。そして彼らが、くじを引いたところ、くじはヨナに当った。そこで人々はヨナに言った、「この災がだれのせいで、われわれに臨んだのか、われわれに告げなさい。あなたの職業は何か。あなたはどこから来たのか。あなたの国はどこか。あなたはどこの民か」。ヨナは彼らに言った、「わたしはヘブルびとです。わたしは海と陸とをお造りになった天の神、主を恐れる者です」。そこで人々ははなはだしく恐れて、彼に言った、「あなたはなんたる事をしてくれたのか」。人々は彼がさきに彼らに告げた事によって、彼が主の前を離れて、のがれようとしていた事を知っていたからである。

         人々は彼に言った、「われわれのために海が静まるには、あなたをどうしたらよかろうか」。それは海がますます荒れてきたからである。ヨナは彼らに言った、「わたしを取って海に投げ入れなさい。そうしたら海は、あなたがたのために静まるでしょう。わたしにはよくわかっています。この激しい暴風があなたがたに臨んだのは、わたしのせいです」。しかし人々は船を陸にこぎもどそうとつとめたが、成功しなかった。それは海が彼らに逆らって、いよいよ荒れたからである。そこで人々は主に呼ばわって言った、「主よ、どうぞ、この人の生命のために、われわれを滅ぼさないでください。また罪なき血を、われわれに帰しないでください。主よ、これはみ心に従って、なされた事だからです」。そして彼らはヨナを取って海に投げ入れた。すると海の荒れるのがやんだ。そこで人々は大いに主を恐れ、犠牲を主にささげて、誓願を立てた。

        口語訳聖書(1954年版) ヨナ書1:1-16


         「右も左もわきまえぬものたちを惜しまずにはいられない」、これがヨナ書のテーマである。「神の憐れみ」と表現してもよいのだが、その憐れみの中身は、惜しまずにはいられないという神の心である。

         問題はこの神の心が「異邦人に向かう」ということである(異邦人とは外国人、つまりヘブライ人(ユダヤ人)以外の意)。ヨナはそれを受け入れることができない。ヨナは堕落した大都市ニネベに「滅び」を宣告するよう神から召しを受けるが、ニネベの人々が悔い改め、神が滅ぼすのを思いとどまることを予期している。だから、ヨナは逃げ出したのだ。

         後にふてくされ、怒ったヨナは次のように語っている。

        「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。 ヨナ書4:2

         ヨナは神の憐れみが異邦人にも及ぶことを頭では理解している。しかし、受け入れることができない。ヨナはイスラエルの民(ヘブライ人)の立場を代表している。神の民イスラエル以外は救われない、はずが、神の憐れみはヨナの頭の上を越えて行く。

         ヨナが許容し得るより、神の憐れみは広範囲に及ぶ。ヨナは怒る。しかし、その憐れみはヨナ自身に向けられているものでもあるのだ。彼は神の心が身近にありすぎてそれに気づいていない。まるで親子ようだ。

         ヨナは反抗し、逃げ出すが、無意識的に神の自分に対する愛を知っている。彼が船上で問い詰められたとき、突然立派な信仰の告白をするのも、自分の身を海に投げ込むことを願うのも、どこかで神を信頼しているからである。反抗し、逃げながらも、いざとなったら神が守ってくれることを知っているのである。

         ヨナを思う神の心は、わが子のことで腹を痛める親の心のようだ。その心は世界の民にも向かう。一人ひとりに向かう。許しがたい者にも向かう。神に反抗し、逃げ出す者にも及ぶ。

         しかし、神の憐れみの大きさ、を語ろうとすると私は息苦しくなる。たぶん、私もヨナと同じように人を赦せずに苛立っているからだ。トイレに行って、心の中で「神の心の広さを語る 私の心は狭い」とつぶやいてみた。心の中で何かがほどけた。自分の了見の狭さが馬鹿らしくなった。

         ヨナ書はユーモアに満ちた書である。この書には人の凝り固まった信仰や心を解きほぐす力がある。自分の小ささを笑い、神の大きさ目を開かれるなら、それも神の憐れみによる出来事であり、ヨナ書を書いた人が願ったことでもあるのだと思う。

        久居新生教会 牧師 霤朕心鄂