2016.11.16 Wednesday

「永遠の命綱」ローマ人への手紙14:1-12

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    <聖書>

     信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する。すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。それだのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。すなわち、

    「主が言われる。わたしは生きている。
    すべてのひざは、わたしに対してかがみ、
    すべての舌は、神にさんびをささげるであろう」
    と書いてある。だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。

    口語訳聖書(1954年版) ローマの信徒への手紙14:1-12 

     キリスト信者は「神と自分のかかわり」をどう考えているのだろうか。人生のある時に、教会の礼拝において、聖書において、イエスという方と出会う。この方が自分のために命を捨てられたことを知るようになる。この方の十字架と復活において「神との関係が回復」された。そして今がある。

     今現在はどうだろうか。神とのかかわりは見えているだろか。「見えている」と自信を持って言える人の方がかえって危ないのかもしれない。普段多くの人は他の人間との関係に生きている。これは人間としてあたりまえのことだ。キリスト信者にとって問題となるのは、「人間との関係」に心を奪われて、神とのかかわりが見えなくなってしまうことである。

     パウロが手紙を宛てたローマの教会の人々もそうだった。肉食と菜食主義、飲酒と禁酒の立場の人が対立し、互いに軽蔑し合っていた。「あいつ(ら)と自分(たち)」しか見えなくなっていたのである。

     パウロは神と人間のかかわりに目を向けるよう促す。「あいつと神の関係」、「自分と神の関係」。「なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである」。

     そう、イエスという方が私の「主」なのだ。「ボス」なのだ。「あいつ」も主の僕なのだ。それが「主のもの」ということである。この関係は生においても死においても解かれることがない。「だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。

     今「神とのかかわり」はどうなっているだろうか。誰かを非難するよりそちらが先決である。神とのかかわりにおいて人を見るとき、目の前にいる非難すべき人は、問題を抱えた人へと姿を変える。その人だって本当は困っているのだ。ただ、間違っていることは間違っていると思うと、率直に伝えるべきだろう。憎む必要はないのだ。

     「わたしたちは主のもの」。腰には「永遠の命綱」が巻かれている。たとえ落ちることがあっても大丈夫だ。ボスが引き上げてくれる。

    久居新生教会 牧師 霤朕心鄂