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2017.10.04 Wednesday

「神のかたち」創世記1:6-31

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    <聖書>

     1:6神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。 1:7そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。 1:8神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。

     1:9神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。 1:10神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。 1:11神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。 1:12地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。 1:13夕となり、また朝となった。第三日である。

     1:14神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、1:15天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。 1:16神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。 1:17神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、 1:18昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。 1:19夕となり、また朝となった。第四日である。

     1:20神はまた言われた、「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」。 1:21神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた。 1:22神はこれらを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、海の水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」。 1:23夕となり、また朝となった。第五日である。

     1:24神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。そのようになった。 1:25神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。

     1:26神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。 1:27神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。 1:28神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。 1:29神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。 1:30また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。 1:31神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。

     

    口語訳聖書(1955年版) 創世記1:6-31

     

     「動物は祈らない。」一人の生物学者が出した結論だそうだ。ある方の講演の中で聞いた。かなり人間に近い猿の仲間はいる。言葉のようなものを持つ動物もいる。だが祈る動物はいない。礼拝もしない。当然宗教もない。

     

     「 1:27神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

     聖書は人間が神にかたどって、「神のかたち」に創造されたと教える。すべての人間に「神のかたち」がある。

     「神のかたち」とはいったい何なのか、いくつかの説がある。私としては「神の対話の相手として」創造されたという理解に立ちたいと思う。対話の在り方の一つが祈りなのだ。

     

     伝道の書3:11(新共同訳聖書では『コヘレトの言葉』)には次のような言葉がある。

    神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。

     祈らない人でも「永遠を思う思い」を持っている。人が絶望するのも希望するのも、永遠を思う心を持っているからではないだろうか。永遠を思う時、それと知らずとも、神との対話が始まっているのだ。

     

     旧約聖書の民、イスラエルの民は内なる偶像礼拝と戦い続けた。どんなに美しい神の像も、神のかたちを表しはしない。神のかたちは像の中にではなく、「人間の中に」あるのだ。神を知るには「神のかたち」を見ればよい。人間を見ればよい。そこに神のかたちがある。

     問題は、新約聖書的な観点から言えば、「罪」のために人間の中にある神のかたちは「損なわれている」ということである。失われてはいないが損なわれている。

     

     だが一人例外がいる。

    1:15御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。」(コロサイの信徒への手紙1:15)

     御子イエス・キリストだけは、完全な神のかたちを持っている。外見のことではない。この方の人格の内に、神の姿は完全に表されている。神のかたちと持つというよりは、神の子として「神のかたちそのもの」なのだ。

     だから、神を知りたければ、神を見たければ、キリストを見るのだ。

     

     この方の十字架の死と復活は、信ずる者に神のかたちの回復をもたらす。神との新しい対話の命が始まるのだ。

     神のかたちを回復され、イエス・キリストに神のかたちを見る者は、人の中にも神のかたちを見出していくだろう。人間の尊厳がそこに輝いている。それは我々の目を奪い、敬意を付与する。敬うことから、愛することもまた、始まるだろう。

     

    久居新生教会 牧師 霤朕心鄂

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