<< 「恵みの川」創世記2:4-17 | main | 「テープを切る日まで」ヘブル人への手紙11:29-12:3 >>
2017.10.25 Wednesday

「裸の心」創世記2:18-24

0

    <聖書>

     2:18また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。 2:19そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。 2:20それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。 2:21そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。 2:22主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。 2:23そのとき、人は言った。

    「これこそ、ついにわたしの骨の骨、
    わたしの肉の肉。
    男から取ったものだから、
    これを女と名づけよう」。

     2:24それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。 2:25人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。

    口語訳聖書(1955年版) 創世記2:18-24

     

     裸でも恥ずかしくなかったのは、単に無垢で純朴だったからではない。人は今、目の前にいる女の存在を心から喜んでいる。彼女が今目の前で生きていることを喜んでいる。相手の存在を喜び、心から受け入れているからこそ、恥ずかしくなかったのだ。

     

     創世記一章には、神にかたどって、「神の対話の相手として」人間が創造されたことが記されている。第二章は人間が「他者(他の人間)との対話に生きる存在」として創造されたことを伝えている。

     イエス・キリストの死と復活は、神と人間との関係を回復する。そこで神との対話的関係、他者との対話的関係も回復される。

     

     相手が今生きていることを喜び、互いを受け入れる。裸の心で受け入れる。受け入れ、受け入れられるならば、恥ずかしくはない。夫婦、家族、教会という共同体はこうしてしなやかに、強くなってゆくのだろう。

     「裸の心」とは「ありのまま」ということではない。ありのままの人間、あるいは自我を肯定することの恐ろしさは、時にそれがおぞましいほどの人間の罪を、肯定してしまう、あるいは自分に許してしまうことにある。

     ありのままの自分があって、他者との関係が生まれるのではない。本当はきっと逆なのだ。人間は元々「他者との対話に生きる存在」として創造されたのだから。他者との対話的関係があって、ありのままの自分がいるのだ。言い換えれば、相手(他者)がそこに生きている単純な事実を心から喜ぶ時、私たちの「裸の心」はすでにそこにあるのだ。それが本来の人間の心なのではないか。ありのままの自分や、ありのままの心よりももっと本当な、裸の心ではないか。

     

     根底にはキリストの死と復活という出来事がある。十字架の前で、人は鎧を脱ぎ捨てる。神と人に対する裸の心が、そこに生まれる。

    久居新生教会 牧師 霤朕心鄂

    コメント
    コメントする








     
    Calendar
          1
    2345678
    9101112131415
    16171819202122
    23242526272829
    3031     
    << August 2020 >>
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM