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2017.11.08 Wednesday

「テープを切る日まで」ヘブル人への手紙11:29-12:3

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     11:39さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。 11:40神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。

     12:1こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。 12:2信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。 12:3あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。

    口語訳聖書(1954年版) ヘブル人への手紙11:29-12:3

     

     イエスという方は、「自分の前にある喜びのゆえに」、恥をもいとわず、十字架の死を受け入れたのだと言う。

     旧約聖書のイザヤ書53:11にこんな言葉がある。ちなみに、イザヤ書の53章は教会において、イエス・キリストについての預言として親しまれている。ある意味で、新約聖書以上に鮮やかにイエス・キリストを描き出している箇所だ。

    彼は自らの苦しみの実りを見

    それを知って満足する。

    わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために

    彼らの罪を自ら負った。

     (新共同訳聖書 イザヤ書53:11)

     キリストの前にあった喜びとは、この「苦しみの実り」なのだ。あなたが救われるということが、十字架の死に臨んだキリストの前にある喜びだったのだ。

     

     「あなたはわたしの喜び」というキリストの声が聞こえてくる時、人の内に信仰が呼び覚まされる。ナザレのイエスという方の死が、他ならぬ自分のためであったことが了解される。イエスが「信仰の創始者」であるとは、そういう意味である。十字架が信仰を生起せしめるのだ。

     

     生きることは苦しい。また、キリスト者として生きるのも、時に容易なことではない。しかし、信仰の完成者はキリストなのだ。我々自身ではない。だから、一人のキリスト者の人生が、どのような軌道を描いて、終末の完成に至るのかは、我々の知り得るところではない。分かるのは、キリストが我々の信仰を完成へと導いてくださるということである。

     

     肝要なのは、自分がどのような類のレースを走っているのかということだと思う。短距離走か、マラソンか。結論を言えば、我々のレースは「駅伝」に似ている。我々の使命は信仰のたすきを受け取り、次に渡すことだ。そのために、自分に与えられた区間を走り抜くことだ。

     我々は一人ではない。信仰のたすきは、人類の誕生の時から受け継がれてきた。この歴史を股にかけたレースの最終盤を、我々は走っている。前方には「あなたはわたしの喜び」と言ってくださるキリストがいる。周囲には先に逝った者たちの、声援が満ちている。

     きっと我々は、この苦しいレースを走り切ることだろう。走れないわけがない。イエスという方が前方を走ってくださり、また証人たちの雲に囲まれているのだから。我々は、歓呼の内に、息を切らしながらも、しっかりとゴールのテープを切ることだろう。

     

    久居新生教会牧師 霤朕心鄂

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