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2018.05.16 Wednesday

「生かされた意味」詩編1:1-6

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    <聖書>

    1:1悪しき者のはかりごとに歩まず、
    罪びとの道に立たず、
    あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
    1:2このような人は主のおきてをよろこび、
    昼も夜もそのおきてを思う。
    1:3このような人は流れのほとりに植えられた木の
    時が来ると実を結び、
    その葉もしぼまないように、
    そのなすところは皆栄える。
    1:4悪しき者はそうでない、
    風の吹き去るもみがらのようだ。
    1:5それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。
    罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。
    1:6主は正しい者の道を知られる。
    しかし、悪しき者の道は滅びる。

    口語訳聖書(1955年版) 詩編1:1-6

     関根正雄という人は、「悪しき者が自分以外の人間であると考えてはならない」という趣旨のルターの発言を間接引用しつつ、次のように述べている。

    「(前略)ルター的に言えば十字架の光に照らされる時、われわれは神の前に完全な罪人として、同時に完全な義人として立つのである。」(『関根正雄著作集第十巻詩編註解(上)、新地書房、1980年、31頁』)

     義人は今回の聖書の箇所で「正しい者」と訳されているヘブライ語の直訳である。

     

     クリスチャンになるということは、罪人でなくなるということではない。「赦された罪人」になるということだ。

     「罪人」とは、必ずしも犯罪者のことを意味しない。「神に対する」罪人のことである。そして聖書は、神の子たるキリストの他に、罪人でない人間は一人もいないと教える。

     

     風に吹き去るもみ殻のごとく、滅びなければならないのは私自身なのだ。死ななければならなかったのは、私だったのだ。キリストが十字架の上で死なれたのは、滅びゆく者の救いと赦しと再生のためであった。

     

     だから、私は「赦された罪人」として生きる。私の代わりに失われたすべての命を思いながら。

     「流れのほとりに植えられた木」は、終わりの日に向かって、実を結びつつある。この身が衰え、倒れ伏そうとも、贖われた命は、自分が生かされた意味を問い続ける。

     

    久居新生教会牧師 霤朕心鄂

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