2017.11.29 Wednesday

「追放と帰還」創世記3:20-24

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    <聖書>

    3:20さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。 3:21主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。

    3:22主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。 3:23そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。3:24神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。

    口語訳聖書(1955年版) 創世記3:20-24

     夜、妻と子どもたちが寝た後に、居間に行った。ワッペン、シール、紫外線で固めるアクセサリー。娘の靴を飾るためのものだ。この前買った娘の靴が、素敵なのだが女の子には少し地味すぎるので、妻が準備したのだろう。

     母は本当に「夜なべ」をする、ということを知った。「母さんの歌」、子どもの頃に「みんなのうた」というテレビ番組でよく流れていた気がする。

    母さんが夜なべをして

    手袋あんでくれた

    木枯らしふいちゃ 冷たかろうて

    せっせとあんだだよ

     

     罪によって、アダムとエバはエデンの園を追放された。神は「義なる方」である。罪に対しては、徹底的に正しく振る舞われる。しかし、主なる神は、二人を裸のままで追放されなかった。

    3:21主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。

     「造って」というヘブライ語(旧約聖書の大部分は古代のヘブライ語で書かれている)には、「手で造る」という意味があるそうだ。つまり、神は指をパチンと鳴らして皮の衣を出現させたのではない。夜なべをする母のように、その手で皮の衣を造られたのだ。さらにその服を放ってやるのではなく、「着せられた」のだ。神が服を着せる!

     神は二人を追放した。けれども二人への愛は絶えなかった。耐えがたき旅に向かう二人のために、皮の衣を造った。

     

     人は皆いつか、楽園を追放されたところの自分の罪と向き合わなければならない。十字架に秘密がある。イエスという方によって罪が赦される時、楽園が回復される。神と人とのあるべき関係、永遠の喜びが、そこに現れる。

    よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう

    (ルカによる福音書23:43)

    久居新生教会 牧師 霤朕心鄂

    2017.11.22 Wednesday

    お休みのお知らせ

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      いつもブログ「聖書のはなし」をお読みいただきありがとうございます。

      今週は11月19日の礼拝にて、芳賀力先生に説教をしていただいたため、ブログの更新をお休みさせていただきます。

       

      ブログは日曜日の礼拝説教から、毎週霤弔書き起こしています。

      これからもよろしくお願いいたします。

       

      久居新生教会牧師 霤朕心鄂

      2017.11.15 Wednesday

      「裁きと赦しの交差点」

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        <聖書>

         3:1さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。 3:2女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、3:3ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。3:4へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 3:5それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。 3:6女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。 3:7すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。

         3:8彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。 3:9主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。 3:10彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。 3:11神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。 3:12人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。 3:13そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。 3:14主なる神はへびに言われた、

        「おまえは、この事を、したので、
        すべての家畜、野のすべての獣のうち、
        最ものろわれる。
        おまえは腹で、這いあるき、
        一生、ちりを食べるであろう。
        3:15わたしは恨みをおく、
        おまえと女とのあいだに、
        おまえのすえと女のすえとの間に。
        彼はおまえのかしらを砕き、
        おまえは彼のかかとを砕くであろう」。

        3:16つぎに女に言われた、

        「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。
        あなたは苦しんで子を産む。
        それでもなお、あなたは夫を慕い、
        彼はあなたを治めるであろう」。

        3:17更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、

        地はあなたのためにのろわれ、
        あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
        3:18地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、
        あなたは野の草を食べるであろう。
        3:19あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、
        あなたは土から取られたのだから。
        あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。

        口語訳聖書(1955年版) 創世記3:1-19

         

         「日の涼しい風の吹くころ」とは夕方のことで、この時間になると神がいつも二人のところを訪ねていたことを表している。けれども、いつもの二人がもうそこにはいないことを、神は知っている。罪が二人を捕えてしまったのだ。末っ子のヨセフを失った父ヤコブのように、放蕩息子に出て行かれた父親のように、痛みを含んだ声で、神は問いかける。

        「あなたはどこにいるのか。」

         

         「罪」について、今日の箇所から色々な解釈がなされる。神の命令に背いたことが罪、神のようになろうとしたことが罪、神から隠れることが罪、人のせいにすることが罪。マトから近い遠いはあるにせよ、どの解釈も間違いではないと思う。

         人のせいにする罪に近いが、私としては「罪を認めることができない罪」に、罪の深刻さを見ずにはおれない。

        「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです(ルカによる福音書23:34

         わたしのせいではない、わたしのせいではない、人間の奥底にある叫びだ。その叫びはやがて「十字架につけろ、十字架につけろ」という叫びとして、キリストに向かう。

         醜い。本当のところ自分はとても醜い。その醜さから目を逸らして過ごしている。それがまた情けない。

         ただ、アダムとエバの姿を見るとき、これは自分の姿だなと思う。そして、そんな人間のために十字架の上で神に赦しをこうた方のことを思わずにはおれない。

         思うに、人が自分の罪を知り、認めるのは、十字架の上に裁きと赦しが一緒に在るからではないだろうか。

          

        久居新生教会 牧師 霤朕心鄂

        2017.11.08 Wednesday

        「テープを切る日まで」ヘブル人への手紙11:29-12:3

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           11:39さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。 11:40神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。

           12:1こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。 12:2信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。 12:3あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。

          口語訳聖書(1954年版) ヘブル人への手紙11:29-12:3

           

           イエスという方は、「自分の前にある喜びのゆえに」、恥をもいとわず、十字架の死を受け入れたのだと言う。

           旧約聖書のイザヤ書53:11にこんな言葉がある。ちなみに、イザヤ書の53章は教会において、イエス・キリストについての預言として親しまれている。ある意味で、新約聖書以上に鮮やかにイエス・キリストを描き出している箇所だ。

          彼は自らの苦しみの実りを見

          それを知って満足する。

          わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために

          彼らの罪を自ら負った。

           (新共同訳聖書 イザヤ書53:11)

           キリストの前にあった喜びとは、この「苦しみの実り」なのだ。あなたが救われるということが、十字架の死に臨んだキリストの前にある喜びだったのだ。

           

           「あなたはわたしの喜び」というキリストの声が聞こえてくる時、人の内に信仰が呼び覚まされる。ナザレのイエスという方の死が、他ならぬ自分のためであったことが了解される。イエスが「信仰の創始者」であるとは、そういう意味である。十字架が信仰を生起せしめるのだ。

           

           生きることは苦しい。また、キリスト者として生きるのも、時に容易なことではない。しかし、信仰の完成者はキリストなのだ。我々自身ではない。だから、一人のキリスト者の人生が、どのような軌道を描いて、終末の完成に至るのかは、我々の知り得るところではない。分かるのは、キリストが我々の信仰を完成へと導いてくださるということである。

           

           肝要なのは、自分がどのような類のレースを走っているのかということだと思う。短距離走か、マラソンか。結論を言えば、我々のレースは「駅伝」に似ている。我々の使命は信仰のたすきを受け取り、次に渡すことだ。そのために、自分に与えられた区間を走り抜くことだ。

           我々は一人ではない。信仰のたすきは、人類の誕生の時から受け継がれてきた。この歴史を股にかけたレースの最終盤を、我々は走っている。前方には「あなたはわたしの喜び」と言ってくださるキリストがいる。周囲には先に逝った者たちの、声援が満ちている。

           きっと我々は、この苦しいレースを走り切ることだろう。走れないわけがない。イエスという方が前方を走ってくださり、また証人たちの雲に囲まれているのだから。我々は、歓呼の内に、息を切らしながらも、しっかりとゴールのテープを切ることだろう。

           

          久居新生教会牧師 霤朕心鄂

          2017.10.25 Wednesday

          「裸の心」創世記2:18-24

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            <聖書>

             2:18また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。 2:19そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。 2:20それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。 2:21そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。 2:22主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。 2:23そのとき、人は言った。

            「これこそ、ついにわたしの骨の骨、
            わたしの肉の肉。
            男から取ったものだから、
            これを女と名づけよう」。

             2:24それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。 2:25人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。

            口語訳聖書(1955年版) 創世記2:18-24

             

             裸でも恥ずかしくなかったのは、単に無垢で純朴だったからではない。人は今、目の前にいる女の存在を心から喜んでいる。彼女が今目の前で生きていることを喜んでいる。相手の存在を喜び、心から受け入れているからこそ、恥ずかしくなかったのだ。

             

             創世記一章には、神にかたどって、「神の対話の相手として」人間が創造されたことが記されている。第二章は人間が「他者(他の人間)との対話に生きる存在」として創造されたことを伝えている。

             イエス・キリストの死と復活は、神と人間との関係を回復する。そこで神との対話的関係、他者との対話的関係も回復される。

             

             相手が今生きていることを喜び、互いを受け入れる。裸の心で受け入れる。受け入れ、受け入れられるならば、恥ずかしくはない。夫婦、家族、教会という共同体はこうしてしなやかに、強くなってゆくのだろう。

             「裸の心」とは「ありのまま」ということではない。ありのままの人間、あるいは自我を肯定することの恐ろしさは、時にそれがおぞましいほどの人間の罪を、肯定してしまう、あるいは自分に許してしまうことにある。

             ありのままの自分があって、他者との関係が生まれるのではない。本当はきっと逆なのだ。人間は元々「他者との対話に生きる存在」として創造されたのだから。他者との対話的関係があって、ありのままの自分がいるのだ。言い換えれば、相手(他者)がそこに生きている単純な事実を心から喜ぶ時、私たちの「裸の心」はすでにそこにあるのだ。それが本来の人間の心なのではないか。ありのままの自分や、ありのままの心よりももっと本当な、裸の心ではないか。

             

             根底にはキリストの死と復活という出来事がある。十字架の前で、人は鎧を脱ぎ捨てる。神と人に対する裸の心が、そこに生まれる。

            久居新生教会 牧師 霤朕心鄂