2017.09.13 Wednesday

「タカイタカイ」テサロニケ人への第一の手紙5:23-28

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    <聖書>

    5:23どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。 5:24あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。

    5:25兄弟たちよ。わたしたちのためにも、祈ってほしい。

    5:26すべての兄弟たちに、きよい接吻をもって、よろしく伝えてほしい。 5:27わたしは主によって命じる。この手紙を、みんなの兄弟に読み聞かせなさい。

    5:28わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。

    口語訳聖書(1954年版) テサロニケ人への第一の手紙5:23-28

     

     わが子との遊びに、「タカイタカイ」の変形がある。子どもの脇を抱えて持ち上げる。ここまでは普通のタカイタカイと同じだ。それから子どもの両足を私の両肩にのせる。子どもは立ち上がって天井に触る。

     ゆっくり降りて来てくれるとありがたいのだが、わが子はなぜか頂点から胸めがけて飛び降りる。当然両腕で抱き留めなければならない。そのうち腰を痛めるかもしれない。

     子どもが飛び降りるのは、親が抱きとめてくれることを信じているからだ。「信じる」ということはある面で、「幼子のようになること」だ。父の腕の中に飛び込むことだ。

     

     「全くきよめられる」、「責められるところのないもの」になるなんて無理だと思う人もいるだろう。けれども、神が求めておられるのは、人間の目から見て非の打ちどころのない人になることではない。「神の目の前に」非の打ちどころのない人となることである。

     神が求めるのは、イエス・キリストを信じて救われること、その救いによって新たにされていくことだ。それが「完全」ということだ。その歩みは世界の終わりまで、あるいは人生の終末まで続く。

     

     「5:24あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。」神は真実な方だから、この方の腕に身を投げようと思う。少し怖いが、大丈夫だ。キャッチしてくださる。

     生きていく中で、不完全すぎる自分の姿に打ちのめされる。だからこそ、今、神に委ねるということをもっと深く知りたい。飛び降りるのに必要なのは勇気よりも信頼だ。信頼できるのは神が真実な方だからだ。飛び降りた後の行き先は、この方にまかせる。

     

    久居新生教会 牧師 霤朕心鄂

    2017.09.06 Wednesday

    「川下に向かって」テサロニケ人への第一の手紙5:16-22

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      <聖書>

      5:16いつも喜んでいなさい。 5:17絶えず祈りなさい。 5:18すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。5:19御霊を消してはいけない。 5:20預言を軽んじてはならない。 5:21すべてのものを識別して、良いものを守り、 5:22あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。

      口語訳聖書(1954年版) テサロニケ人への第一の手紙5:16-22

       

       まともに教会に通い始めた頃、この聖書の言葉は心を惹きつけた。こんな生き方もあるんだと、喜ばしく思ったものだ。

       今はこの言葉を前にして、鋭い問いを投げかけられているのを感じる。あなたは本当に信じる喜びに生きているか。自信をもってはいと答えることができない。

       

       「これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」「これが・・・求めておられる」は、ギリシャ語の原文を直訳すれば、「これが神の意志である」だ。

       神の意志だということは、神御自身がそれを実現するということである。人の取り組みより先に、神の意志と決定があるのだ。

       

       いつも喜んでいるかと聞かれたら、言葉に詰まる。けれども、自分の一生をかけて、最期の一分一秒まで、常に喜び、祈り、感謝する生を追い求めていきたい。それは、神がキリスト・イエスにあって、その生を実現してくださることを意志し、決意しておられるからだ。

       

       川下に向かって泳ぐ時、人を目的地に到らせるのは、その人の泳ぎだろうか、それとも川の流れだろうか。ともかく、川の流れを忘れてもがいているならば、まずは流れに身を任せたいと思う。それから泳いでも遅くはないだろう。

       

      久居新生教会 牧師 霤朕心鄂

      2017.08.30 Wednesday

      「媚びず侮らず」テサロニケ人への第一の手紙5:12-15

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        <聖書>

        5:12兄弟たちよ。わたしたちはお願いする。どうか、あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々を重んじ、 5:13彼らの働きを思って、特に愛し敬いなさい。互に平和に過ごしなさい。 5:14兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。 5:15だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。

        口語訳聖書(1954年版) テサロニケ人への第一の手紙5:12-15

         

         「労し、指導し、訓戒している人々を重んじる。」「重んじる」というギリシャ語の基本的な意味は「知る」である。テサロニケの教会の人々へ手紙を書いたパウロは、教会のために労苦している人をまず知って欲しいと述べているのだ。

         ある聖書学者は「労する」という言葉に、「自分を使い果たす」というほどの強い意味があると言っている。そういう人のことを忘れてはいけない。目をそらしてもいけない。まず、知らなければならない。

         

         パウロはそのような人が「主にあって」労苦しているのだと語る。「主にある」という言葉には多くの意味合いがあるが、ここでは「ある種の権威」が存在することを表している。その権威はキリストの権威に基づくもので、キリストに従うが故に負った責任の重さと相関関係にある。

         

         私はキリストの権威と自分の権力をはき違えている人間を好きになれない。また、そのような偽りの権威にすり寄る人間も、あまり好きになれないことが多い。そして、自分の中にも存在する権力を欲しがる傾向を警戒している。しかしまた同時に、すべての権威を否定するつもりもさらさらない。やはり、キリストの権威に基づく権威というものは存在するのだ。

         役員、教区常置委員、教団総会議員、教団常議員など、教会会議によって選出される職務には一定の限定的な権威がある。その人に権威があるというより、その職務に権威がある。

         その権威に払う敬意が大きすぎず、小さすぎないこと。権威にこびを売らず、かつ権威をあなどらないこと。それが肝要なことと思う。

         

        久居新生教会 牧師 霤朕心鄂

        2017.08.23 Wednesday

        「すべての荷を降ろす」テサロニケ人への第一の手紙5:1-11

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           5:1兄弟たちよ。その時期と場合とについては、書きおくる必要はない。 5:2あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。 5:3人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。 5:4しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。 5:5あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。 5:6だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。 5:7眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。 5:8しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。 5:9神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。 5:10キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。 5:11だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。

          口語訳聖書(1954年版) テサロニケ人への第一の手紙5:1-11

           

           洗礼を受けてから十三年と少し経った。色々なことがあったが、今、「さめても眠っていても主と共に生きる」という言葉のもとに、過ぎた日々を思い起こしている。

           考えてみれば申し訳のないことをしてきた。復活のキリストの方は、寝ても覚めても共にいてくださるのに、こちらの方はいつも共におられる方を忘れてばかりいる。

           人がキリストと共に生きようとして、共に生きるのではない。キリストが共に生きてくださるので、人もキリストと共に生きるのだ。「キリストが私たちのために死なれた」のは、そのためである。

           

           寝ても覚めても主と共に生きる者にとって、「主の日」、世界の終末は滅びではなく、救いの完成を意味するようになる。また、自分の人生の終末(死)も滅びではなく、完全な平安の到来となる。人生の終末は、世界の終末への寝台特急だ。目覚めたらそこは終点だ。

           正直に言えば、私は世界と自分の人生の終末を切望している。すべての終わりを求めている。しかし、自らの命を絶つことは決してないだろう。イエスという方が「生きよ」と言ってくださる限り、一分でも一秒でも長く、なりふりかまわずに生きてやるつもりだ。

           でもやはり、私は終わりを求めている。終わりとは、今は見ることができないキリストに、顔と顔を合わせてお会いする日なのだ。その時、この方のもとにすべての荷を降ろすであろう。今、寝ても覚めても共に生きてくださっている方にお会いする日、それが「終わりの日」だ。

           

          久居新生教会 牧師 霤朕心鄂

          2017.08.06 Sunday

          お休みのお知らせ

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            いつも久居新生教会ブログ【聖書のはなし】をお読みいただきありがとうございます。

            8/9と8/16は都合によりブログの更新をお休みさせていただきます。

             

            8/23からまた再開するので、読みに来ていただければ幸いです。

             

            久居新生教会牧師 霤朕心鄂